アニメにおける物体変化を巡る理論 ――作画崩壊、マテリアリスム、世界変革

『干物妹!うまるちゃんR』6話において、本場切絵は土間埋(うまる)をモデルにしてスケッチを描くのだが、そのスケッチというのは見ればわかる通り、明らかに干物妹状態、言い換えればデフォルメ状態の埋なのであった。すなわち、切絵にとって埋は実際にこのように見えており、ということは干物妹状態の埋は、単なるアニメ表現におけるデフォルメ記号といった類のものではない、ということがわかる。

ということはつまり、干物妹状態の埋は、視聴者の眼にとっては二等身のデフォルメ・キャラクターであると同時に、大平や切絵、本場猛や橘・アレックスの前では、実際にこのような形に生成変化している可能性が出てくる。これは一体どのように考えるべきか。

ここで起こっていることを簡単に先取りして言えば、作画であるところの「表現」のレベルと、作品世界内における存在様態であるところの「内容」のレベル、これら二つのロジカル・タイピングの意図的な混同であると思われる。以下では、作画崩壊を例に取り、より具体的に考察していく。

作画崩壊とは、制作過程において発生する作画の技術的な破綻であり、「表現」のレベルにあると考えられている。つまり、作画崩壊は「内容=存在様態」のレベルには基本的には関わらない。しかし、そのロジカル・タイピングの区別は、どの程度一貫して保たれているのだろうか。換言すれば、我々は作画崩壊を純粋に「内容=存在様態」のレベルにおいて考えてはいけない、という理由が果たして本当に存在するのだろうか。すなわち、作画崩壊とは、作画が崩壊しているのではなく、実際にその世界における人物、物質、空間の遠近、等々が崩壊しているのだ、という見方が存在してもいいのではないか。

これらは単なる思考実験、もしくは狂人による妄言でしかないと思われる向きもあるかもしれない。しかし、実際にこのような事態を表現として取り込んでいるアニメ作品も存在する。それが以下に紹介する作画崩壊作画である。

例えば、『ハッカドール』2話における「キャベツ検定」ダンス。これは一見して(?)わかるように、作画崩壊を意図して描かれた作画である。言い換えれば、作画崩壊についての作画であり、一種のメタ作画とも言える。作画崩壊作画においては、作品内の人物の身体や事物は実際にそのように崩壊しており、そして人物たちは、その崩壊について自覚している。そこでは、人物たちは崩壊を生きている。

続いて、これは『てさぐれ!部活もの あんこーる』3話「あなたは美しいが冷淡だ」。本作は3DCGアニメなので、厳密には作画崩壊作画とは異なるが、やっていることはほぼ等しい。この話数では、冒頭にキャラクターの一人から「(制作)の労力をできるだけ抑えたい」というメタ的な宣言が成された後、後半に至って白黒の線画だけになり(ちなみに本作は前述の通り3DCG作品なので、手を抜いたところで実際はこのようにはならない。言うなれば「手の込んだ手抜き」である)、背景にはアヴァンギャルドな落書きがぶち撒けられる、という異形の空間が立ち現れる。

他にも、『超・少年探偵団NEO』3話における同様の作画崩壊作画や、『あいまいみー』における所謂「FXで有り金全部溶かした人の顔」等々、そこでは作画崩壊が意識的に志向されており、と同時に多かれ少なかれ登場人物たちは、その崩壊を(あるときはメタレベルの視点から)意識している。いわば、彼ら彼女たちは、作画崩壊を実際に体験している、もしくは作画崩壊の世界を生きている

これら作画崩壊作画の実践は、前述した、「作画=表現」のレベルと、「内容=存在様態」のレベルという、安定したロジカル・タイピングの二項対立を壊乱させるだろう。そこでは、「表現」のレベルが「内容=存在様態」のレベルに嵌入してくる。

しかし翻って、この「作画=表現」と「内容=存在様態」の区分は、そもそもの最初からそれほど自明だったのだろうか。我々は、普段のアニメ視聴、もしくは現実世界の見方(!)という習慣から、これらの区分を無意識のうちに所与の前提としているだけなのではないか。言い換えれば、ロジカル・タイピングの区別を支える根拠律は実は存在しないのではないか。

アニメ視聴における制度としてあるロジカル・タイピングの区別をあえて判断停止したとき、そこには今までとは異なるまったく別の世界が現れるだろう。常に崩壊過程に曝された世界、あるいは崩壊と再生を不断に繰り返す生成変化の世界

まず、そこでは作画崩壊というものは原理上存在しない。すべては、事物の物体的変形として捉えられる。つまり、崩壊を作画における技術的諸要素に還元するのではなく、崩壊を物質の事件的属性と捉えるということである。

このような見方は、いわゆるストア派的なマテリアリスム(特にエミール・ブレイエによる『初期ストア哲学における非物体的なものの理論』を参考)に近づいていくのだが、このストア派の唯物論を導入することにより、作画の優劣によって作品を評価するといった規範、もしくは「表現=作画」と「内容=物語」とを厳密に分けて考える作品分析を退けることができる。ここには、内容と表現といった二項対立ではなく、単に物と出来事があるのだ。

ロジカル・タイピングという制度。それは、身も蓋もない言い方をすれば、物は突然変容したり崩壊したりしない、という共通感覚に支えられている。ところで、そのような根拠律として機能する共通感覚に、ヒューム的な帰納法的切断を加えるとどうなるか。事物が、次の瞬間には変容、あるいは崩壊、再生するといった、物体的変化の可能性に常に曝された異形の怪物的空間が立ち現れるであろう。そして、そのような空間を原理的に可能にするのが、アニメというメディアなのである。さらに、窮極的に言えば、このようなアニメによって得られた世界認識は、翻って我々が生きるこの現実認識をも変革していく可能性を持っていなければならない。

最後に、これは本論とは直接的には関係ないかもしれないが、『輪るピングドラム』15話について言及して締めくくりとしたい。本作における世界では、東京に巨大なダヴィデ像のタワーが建っている(もしくは建っていた)。そして本話では、世界改変能力を持っている桃果の「運命の乗り換え」によって、ダヴィデ像ではなく代わりに東京タワーが建っている世界線に移動する経緯が描かれる。

このとき、私は一瞬、今自分が生きているこの(東京タワーのある)世界は、ひょっとして桃果が引き起こした「運命の乗り換え」後の世界なのではないか、という目眩のような感覚を覚えた。我々は、桃果と一緒にこの世界線にやってきたのではないか、と。

もちろん、これらは錯覚でしかないだろう。しかし、このとき確かに、アニメというフィクションが現実を凌駕するというか、フィクションが現実認識を変容させたような気がしたのだ。フィクション(桃果による世界改変)こそが、この現実世界の土台もしくは成立可能性を支えている、という転倒かつ錯乱した(?)認識。

しかし、むしろ私はこのような経験こそが、フィクションによって得られるもっとも素晴らしく実り多い経験だと信じて疑わない。同時に、そのような経験は、実はアニメにおいては常に既に起きている、あるいは起き続けている、とも言える。変革を意志さえすれば、アニメは豊穣な「奇跡」で満ち溢れる。

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