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TRPG制作日記(147) ライオンと魔女

多くの日本人が現実について、あるいは世界の真の姿について考えるときには科学を利用します。学校の科学の授業を思いだして、その内容を想定しながら現実なり世界なりを考えがちです。

私たちの目に見えている世界は、小さな原子が集まってできており、化学組成により物質の性質は決まるのだ、つまり私たちに見えている世界は素粒子という目に見えない世界から生まれているのだ、と。

この考え方は正しいかもしれませんが、しかし、正しい考え方だけしか知らないことはその考え方を理解することを妨げ、誤解を恐れず表現するなら本当の理解を不可能にします。

間違った知識を持たない人は、本当の意味で正しい知識を理解することはできないできないものです。

前回、制作中の『太陽神の巫女-AmaterasuCard-』TRPGの計画について書いてきましたが、今日から久しぶりにこのTRPGの背後にある思想、TRPGと文学について書きたいと思います。


さて、ファンタジーについて詳しい人ならば、C・S・ルイスの『ライオンと魔女と衣装ダンス』を名前くらいは知っているでしょう。もしかしたら、何度も読んだことがあるかもしれません。

これは1950年に出版された児童文学に分類される本で、第二次世界大戦で空襲から逃れるために田舎に疎開してきた四人の兄弟姉妹たちが主人公である物語です。

冒険は、彼らの末の妹が衣装ダンスからナルニア国という異世界に転移することから始まります。

ルーシーは、そこでフォーンやドワーフなど魔物たちが暮らす、白い魔女に支配された冬の世界を発見します。


しかし、白い魔女を倒すために、このナルニア国にライオンのアスランが戻ってきます。冬に閉ざされた世界を救いに来たのです。

しかし、アスランは四人の兄弟姉妹の弟が起こした罪を代わりに償うために命を落とします。


さて、ここまでのあらすじで直ちに理解できると思いますが、『ライオンと魔女と衣装ダンス』はキリスト教、しかもキリスト教を扱っているのではなくキリスト教で描いた話です。

後の作品で明らかにされますが、アスランの正体はもちろん、イエス・キリストです(文脈から推測されるだけではなく、作中で「私はある」と発言するので確定です)。

ここで私たちは、ちょっとだけ不思議なことに気がつくと思います。

それは、神の子であり神自身であるイエス・キリストは現実の動物であるライオンとして表現され、いっぽう、神と敵対する悪魔は白い魔女という空想の生き物として描かれることです。

これはキリスト教徒か、あるいはキリスト教について学んだことがある人には何一つ不思議ではないと思いますが、しかし多くの日本人にとっては不思議な設定かもしれません。

なぜなら、唯物論は科学でどちらかといえば魔女に属しており、そして観念論は宗教で神に属している気がするからです。

多くの日本人は神を物質的ではなく精神的なものだと考えます。

科学主義で技術主義で物質至上主義で、科学的に証明できないものはすべて知性の乏しい社会的弱者の妄想であると考える現代的リアリストたちがいる以上、むしろライオンなり馬なり戦車なりが神の敵として登場するのが適切な表現であるように思えます。

宗教とは現実につかれた人が逃げ出す場所だからです。大切なのは目に見える物質ではなくて心なのです。

科学は神の敵です。


思想とは宣言ではなくて表現です。

リアリズムのトマス・アクィナスや唯物論のデカルトについて少しでも勉強したことがある人ならば、ライオンが神で魔女が悪魔であることは自然に思えるでしょう。

そもそも観念論というのは神の否定であり宗教の否定です。

なぜならば、神が世界を創造した以上は、まさに物質こそが神の御心であり現実は神そのものだからです。


また、多くの日本人の直感に反して、唯物論とは目に見えないものを信じることであり、観念論とは目に見えるものしか信じないことです。

イギリス経験主義、という難しい話をしなくても、目をつぶった瞬間に真っ暗になりリンゴが消えてしまうという事実は、私たちが見ているのは「リンゴそのもの」ではなくて私たちの心が生み出した観念としてのリンゴである証拠です。視覚は観念であり、妄想です。

だから、目に見えるものしか信じないということは、妄想と現実の区別はなく自分の妄想だけが現実であるという宣言と同じで、それは科学でもキリスト教でもありません。ただの悪魔崇拝です。


CSルイスの『ライオンと魔女と衣装ダンス』は善の唯物論(ライオン)と悪の観念論(魔女)の戦いと解釈可能です。

そして、それは作者が神を信じていることを明らかにしています。

神を信じるということは、神を癒やしの道具にするのではなくて神が現実に存在していることを信じることです。

CSルイスは神を信じる唯物論の視点から、人間の生みだした悪であるスピリチュアルや精神世界という妄想を攻撃します。


さて、衣装ダンス、という単語が気になったTRPG愛好者は多いでしょう。

もちろん、衣装ダンスというのは、衣装が、すなわち私たちが自分とは別の誰かになるための道具が収容されている場所です。

そのため、衣装ダンスからロールプレイができるファンタジー異世界にいくのは妥当なことです。

ところが、この物語は現実世界から空想世界、本当の世界から偽物の世界に行くという話ではありません。

むしろ、逆です。

『ライオンと魔女と衣装ダンス』という児童文学は、第二次世界大戦という狂った世界から、神が支配するナルニア国に行き、そこで本当の子ども達のあるべき姿に戻る話です。


私たちは演技というと本当の自分とは別の誰かになることだと考えがちですがそれは一面でしかありません。

実際のところ、私たちは演技をすることによって、自分達が日頃どのような演技をしてしまっているのかを知ります。

そして、別の世界から今の自分達の世界を見ることは、むしろそれは現実について考えることです。


私たちが現実だと思っていることのほとんどは、自分よりも権力がある他者から押しつけられた権力者の妄想です。

コミュニケーション能力とは自分の妄想を他者に押しつけて相手の現実感覚を破壊する能力であることは、ここで忘れるべきではありません。


多くの人たちは他者から押しつけられた妄想を現実だと考えて、他者の妄想から逃れるために自分の妄想に逃げ込みます。もちろん、逆の場合は自分の妄想を現実だと考えます。

そして、それを宗教だと考えます。

しかし、多くの文学の考え方は逆です。権力者の妄想を現実だと考えることが問題だと考えます。


CSルイスの描く世界は、全体主義と帝国主義が争う馬鹿げた世界を現実だと考えるのではなく、それを神の御心に反する馬鹿げた世界だと考えるところが完全にリアリズムです。

このことはファンタジー小説こそがリアリズムであり、そして戦争という厳しい世界を厳しく前向きに描く小説は、ただ権力者の価値観を押しつけているだけの妄想であることを示唆します。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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