父と公文式

父と母は社内結婚だった。
当時、務めていた公文式の事務所で出会ったらしい。
父は、早稲田大学を卒業後に公文式に入った。
コネ入社で電博を狙っていたらしいが、才能が無くて蹴られたらしい。
今でこそ、公文式は全世界的な会社だが、当時は有限会社だった。
規模としても小さく、教材も数学しかやっていなかったんだと思う。
就職先としては、失敗だったようだ。
母は、地元の短大を卒業後に公文式で事務員をしていた。
父と母は結婚し、当時は父の実家に住んでいたようだが、転勤によって、北海道に行くことになる。そして、鈴木が生まれたのだった。
北海道での生活は、過酷だった。
今思えば23、4歳と若くして鈴木を産んでいて、かつ北海道という誰も知り合いがいない土地。冬は雪が酷く、子どもを外に出すことも出来ず。
インターネットがない時代だったので、愚痴も出せず。
育児ノイローゼになりかけたとも、後に語っていた。
鈴木は小学校の1年生の12月くらいまで、札幌で過ごした。
小学校は新琴似小学校というところにいたのだが、財政が豊かだったのだろう。
教室、校庭も後に行くことになる埼玉県の小学校よりとても広かった。
(地図上でも調べたが、やはり北海道の方が広かったのだ)
札幌を知っている人に、この話をすると「あー」という反応になるのが面白い。

父は公文式で、教室や先生を統括するような仕事をしていた。
先生の相談に乗ったり、教室の運営について話したり。
ルート営業のような感じだろうか。
社会人になった今は、イメージはなんとなくつく。

鈴木も、幼稚園の時に公文式をやらされていた。
国語でG教材という中学1年生相応のものをやっていた。
優秀児というので表彰された。
今思えば、父の虚栄心を満たすためと、会社での立場をよくするため、利用されていたのではないだろうかと思う。

その頃の記憶としては、夏に父のマイカーだったフォードのスペクトロン(マツダボンゴのOEM車)に乗って、家族で北海道旅行をしていた。
今思うと、ホームビデオや写真を大量に取っていたと思うのだが、両親の離婚のタイミングで、全てのどこかに行ってしまった。鈴木は昔の写真がないのだ。

鈴木家は埼玉県に引っ越してきた。
父の実家が千葉の浦安にあり、手伝いに来てくれたのを覚えている。
引っ越した先は、Yハウスという日本初の超高層マンションだった。
最寄り駅の北Y駅までは徒歩2分。小学校まで10分以内でいける。
なかなかよい立地条件だった。

鈴木が小学校3年生の時だったと思う。
「中国に行こう」父は突然言った。
公文式が中国に進出するという話があり、父はそれに賭けていた。
家族で上尾にある中国語のカルチャースクールに通うようになった。
ある種の巻き込まれ事故である。
しかし、それはかなわず、父と同期の人間が中国に行くことになった。
そして鈴木が小学校4年生の時、父は公文式を辞めるのである。

父はあまり社内でうまく立ち回れてないようだった。
社内で今度一輪車をやると言ったら一輪車、ペン習字と言ったらペン習字、ゴルフと言ったらゴルフ、中国と言ったら中国。でもなんとなく、うまくいかなかった。
で、中国が駄目になったタイミングで切れてしまったんだろうな。と思ってしまう。
当時、長野への辞令が出ていたが断っていたらしい。

鈴木も、あまり仕事で評価されていないので、その気持ちもわかる。
ただ、今の鈴木のような独身だったら兎も角・・・家族を養わなければならない立場で、仕事を安易に辞めるのは軽率だったのではと思うのだ。
公文式を辞めると、生活が苦しくなった。
家賃補助はなくなり、家賃の安い家に引っ越しを余儀なくされた。
今まで出ていた給料は、おそらく減ったのだろう。母もパートで働き始めた。
家族旅行で使ったスペクトロンも売り払った。5万だか10万だかで売れたらしい。
父の帰りは遅くなり、また休みである土日も仕事だったりずっと家で寝ていたりと、鈴木と話すことはもちろん、一緒に遊ぶことも少なくなっていた。

次回テーマ「父と通販会社」

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