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蛍と登山(22) Little wing 〜 農鳥岳 編


 西農鳥岳の山頂に到着した。蛍が来るまで待とう、と思いながらも、内面にはまだ怒りのようなものが残っていた。今のままではまだ冷静な応対が出来ないかもしれないと思い、先へ進もうと、立ち上がった。


いや待て、子供じみた真似はよせ、とも思ったが、不思議と、怒りと煩わしさが勝った。そう思ったら 登山道を駆け下りていた。

やはり、ヤマだけが自分の拠り所なのかもしれない。登山道を疾走しながら意識を高めていく。この感覚、一人で山に入ることの爽快感と充実感を取り戻しつつあった。自然だけが味方だ、ヤマが自分にとって最良のフィールドなのだ。そうだ、数ヶ月前はこれが自然な姿だったじゃないか。

何故か「家族」という言葉をふと思い出し、走るのを止めて歩き出した。鮎のお腹の中には私の子供がいる。少なくとも、この子だけは蛍のように放置してはならない。

そう思ったら、もう一人の家族・鮎と話したくなった。こういう状況で鮎だったら、どう支えてくれるんだろう?と気になった。娘を放置したことをなじられるかもしれないが、突然話をしてみたくなった。

農鳥岳へ向かう岩場の上に座って、電話をかけた。13時前だ、昼食は食べ終わっただろうか。

「こんにちは」 鮎が直ぐに電話に出た。

「突然、電話してすみません、お昼は食べました?」

「ええ、食べ終わった所です」

「声を聞きたくて電話しました。ちょっと長くなるかもしれません」

「蛍が側に居ないのね?」

「はい、少し疎ましくなって・・その、別行動をしています」

「あら、初の夫婦喧嘩じゃない?」

「喧嘩ではないですが、プライバシーの侵害をされたと言うのが一番適当かもしれません」

「プライバシーの侵害だと、確かに問題ね。そうそう、私のプライバシーはあなたに全部公開済よ」

「ホントですか!それは知りませんでした・・あの、体調はいかがですか?」 こういう切り返しが鮎の魅力の一つでもある。

「いつも私は絶好調。それで、今夜は帰ってくるの?」

「温泉に泊まる予定でしたが、家まで帰った方が良いかもしれません」

「蛍と一緒に居たくないから?」

「そうですね。こんな気分は初めてです」

「夫婦の間では色々あるから、そうなる事も有るものよ。帰ってきてからゆっくりとお話を聞かせて下さい」

「いや、スミマセン。無性にあなたの声を聞きたくなったものですから」

「いいえ。でも、あなたから初めて電話を貰ったから 最初は驚いたわ。蛍に何かあったんじゃないかって」

蛍の状態は、今は確かに分からないな・・

「元気ですよ。実は北岳だけではなくて、隣の山を縦走してる最中なんですが、実に調子よく登っています。まるであなたのような効率的な登り方になりました、大したものです」

「ってことは あの子、調子にノッてるって事かしら?」

「流石ですね・・そうかもしれません」

「あなたに甘えて、今夜は帰りたくない!とか、言ってませんか?」

「凄いな・・まぁ、そんな感じです」

「ごめんなさいね。世間に慣れていない娘で・・世間って意味が違うな、そう、あなた以外の男性を知らないから」

「いえいえ、そんなことはないんですけれども・・」

「お願いなんです。聞いていただけますか? もし、あなたが我慢が出来ないようなら、どうか今夜中に帰ってきてください。でも、蛍が自分で気が付いたようならサービスだと思って、もう一日一緒にいて頂けないかしら。あ、最初の発言はあなたの妻としての発言で、後者は蛍の母のお願いよ」

「なるほど」笑いながら言った。「また、電話するかもしれません。ああ、そうだ。蛍が相談の連絡をするかもしれません。僕が怒ってズンズン先に歩いて行っちゃったって」

「なんだ、やっぱり夫婦喧嘩じゃないの」

「夫婦喧嘩なのかな?」

「残念!こういう時に側にいたら、妻として、あなたを優しく抱きしめてあげるチャンスだったのになぁ」

「是非、そうして頂きたいものです」 笑うしかなかった

「何れにしても、蛍をお願い。ふつつか者で申し訳ありませんが」

「はい 分かりました。お母様」

「ねぇ、2人で話してるときは使っちゃダメだって言ってるでしょう!」

「あっ、すいませんでした」

「気を付けて下さいね。 ね、もう少し電話大丈夫かしら?」

「はい、何でしょう?」

「あのね、昨日 夢を見たの。赤ちゃんですけど、多分、男の子よ」

「へぇ〜、どんな夢だったんですか?」

「あなたに出産に立ち会って頂いてるの。手を握って貰って頑張れって。でも、私は産んでる最中は赤ちゃんが見えないじゃない?」

「ええ、確かにそうですね」

「あなたと赤ちゃんがワンワン泣いてるの。あなたが血だらけの赤ちゃんを抱きあげて、私に向かって見せたの。可愛いおちんちんがバッチリついてたのよ。直ぐに看護婦さんに盗られちゃったけどね、産湯の為に」

「随分、リアルな夢ですね・・」

「蛍のときは立会い出産なんて出来なかったから、前例じゃないわよ」

「なるほど、分かりました。当日は喜んで立会いますから」

「応援、宜しくお願いしますね・・それじゃあね、旦那様」

「はい、失礼します」

 気分が随分と弛緩した。鮎という存在はやはり私には重要な意味を持つ。現時点では、蛍以上なのかもしれない。包容力や愛情面では特に。姉さん女房の方が私には向いている。ただ単に、甘えたいだけなのかもしれないが。

いずれ、蛍も鮎のような女性になると捉えるならば、それは有り難い事だし、恐らくそうなるに違いない。今は、それでもまだ若い娘なのだから、私が心を広く持ってサポートするのが当然なのだろう。

そう思い直して、立ち上がると慌てて道を戻ってゆく。随分と可哀想な目に合わせてしまったかもしれない。また、西農鳥岳の頂上まで戻ってきたが、まだ見えないのでもう少し戻ることにした。

蛍が登っているであろう道を、飛ぶように駆け下りてゆく。

西農鳥岳の前衛の前で、座り込んでいた。どうやら泣いているようだ。近づくと気がついたのだろう。こちらを見てワンワンと声を上げて泣き出した。可哀想なことをしたなと、申し訳なく思う反面、まるで子供の泣く様に似ていて可愛くもあった。

「お迎えに参りました!」 目の前で停車して、敬礼する。

「どうしようかと思ったじゃないの!」と、まだ泣いている

「千枚田で聞いたセリフと同じで驚きました、お嬢様」 

座りながら、目線を合わせた

「もう〜、思い出しちゃったじゃないの!」

私を叩きながら、更に涙が湧いて出てきた。

「ごめんね、蛍」

頭ごと抱きしめる。暫くそのまま泣かせながら、空を見上げた。     雲の色が灰色に変わっていた。


(つづく)

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taizan

単なるサラリーマンです。 思いつくまま、日常の出来事を書いていこう、と思います。
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