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蛍と登山(21)Separate ways 〜農鳥岳編


( 妻 ) 

 強い夫が、ここまで小さくなってしまうことに驚いていた。北岳の頂上でも、そして今も、葵さんを想いながら泣いていた。今でも彼女の事を愛しているのだ。夫を追い詰めた事に自己嫌悪を感じながら、それを思い知った。

触れたくない話を無理に聞き出した行為を、ただ後悔していた。”嘘つき”と罵り、僕を信用していない、と夫に言われても、仕方が無い言動だった。

謝らなければならないのだが、目の前で泣いている夫にどう対応すればいいのか、考えあぐねていた。この時点で既に妻としては失格だ。それでも、偽りに近い行動だと思いながらも、夫の背に手を当てて様子を伺うことにした。しかし、私の欺瞞を見透かしたように立ち上がると、少し離れた所まで移動し、私から離れていった。初めて夫に避けられた、という衝撃に震えていた。私の仕業である事は間違いないのに、その衝撃の大きさに驚いた。

「ごめんなさい。私の無神経さで、あなたを追い詰めてしまって・・」

「いいんだ・・」

いつものような温かみのある言い方ではなかった。今まで聞いたこともない、空虚な言葉だった。

私に背を向けたまま、ゆっくりと歩き出してゆく。今は後を追うしかなかない。夫が語りかけてくれるまで待つべきなのか、私が先に語り掛けるべきか悩んでいた。しかし、話しかけるにしても何を言えばいいのか、どうしよう、どうすればいいの、と頭の中で ただ反復していただけだった。
夫にどう接すれば良いものか、その考えが全く浮かんでこなかった。

ただ、避けられ続けている事に動揺し、混乱していた。

ーーーーー

( 夫 )

ザッザッと登山道の小石を踏む音だけが続いていた。蛍が後を付いてきているのを苦痛のように感じていた。更に黙って付いてきていることに、辟易していた。
そう思ったことが私には驚きだった。蛍を疎んじる事自体、初めての事だ。

しかし、今回ばかりはそれも当然なのかもしれない。追求され、鬼の首を取ったような先程迄の蛍の言動の数々を思い出し、心は乱れに乱れていた。

蛍に隠す事は何一つとして無い。予想していなかったが、これで全てが露呈したことになる。改めて詳細を伝える必要性も、もはや無い。今後、葵との思い出は自分の胸の中だけで留めておくことに決めた。

仮に葵の事で問われたとしても、そこは拒絶しよう。蛍には過去の話でも、私には大事な思い出なのだ。それについて、とやかく言われる筋合いなど、例え相手が蛍であろうが、もはや無いのだ。

ーーーーー

( 妻 )

道をジグザグに登るときに夫の横顔が見える。その真剣な表情を見ると、尚更、声をかける事が出来なかった。ペースも次第に早くなっていくので、付いて行くだけで精一杯だった。でも、絶対に離れたくなかった。離れたら、もう会えなくなるかもしれない、そんな恐怖感に捕らわれていた。この人を失ってしまったなら、私は一生後悔することになる。だから必死に歩いた。この状況を招いたのは私の責任なのだから、必ず許しを請わねばならない。

とにかく、今は夫に付いて行くしかなかった。

ーーーーー

( 夫 )

この先、特に迷うような道でもない。だから離れて進んでいくのもいいだろうと思っていた。蛍を煩わしく思っていたのかもしれない。これ見よがしにペースを更に上げていった。先に進んで、そこで待っていればいいじゃないか、その時、待てる気持ちに変わったのなら。

責任を半ば放棄した状態で、軽い気持ちでそう思った。

ーーーーー

( 妻 )

ペースが早くなったのか、少しづつ離れてゆく。私を置いていこうと思っているのだろう、全く後ろを顧みることなく進んでいる。夫のこの姿勢は衝撃だった。こんなことは今まで、無かった。次第に小さくなってゆく姿をただ見ていた。追いつこうと足は必死に動いている。それでも少しづつ、いや、どんどん2人の距離が離れてゆく。目が涙で霞んだ。私はまた一人ぼっちになるのかもしれない。そう思った時、涙が溢れた。

夫に声をかけるべきか、「お願い、待って!」と言うべきなのか。それを言ったとしても、夫が止まらなかった時の方が、もっと怖かった。

涙で地面が良く見えない。躓いて転びそうになったので足を止めた。泣くのを止めないと、いけない、こんな状態で歩くのは危ない、と冷静になろうとした。それでも夫が離れていく様を見ると涙が溢れてくる。

そして、とうとう、尾根の向こうに夫の姿が消えていってしまった。

「どうしよう」私は足を止め、その場に蹲った。

(つづく)


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taizan

単なるサラリーマンです。 思いつくまま、日常の出来事を書いていこう、と思います。
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