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筑波大学一年生編②

団体戦が終わって少し経ってから茨城県ジュニア。
この大会も当日計量でしんどかった。
同級生に高校選手権決勝を戦った選手がいたが、手術明けで試合に出れなかった。
そのため、割と楽に勝てた。
相手がほぼ高校生で、
『高校生に負けたら坊主ルール』
があったから負けられなかった笑
決勝戦は、岡田総監督の次男だった。笑
父親同士で「完敗でした」と岡田先生から話しかけられたそう。
岡田先生が現役バリバリだった頃、父母が高校生くらいでスター選手。母はしっかりサインもらってた。笑

県ジュニアが終わってすぐに、全日本学生の追い込み期間が始まった。
この年から大学柔道に『青道着』が採用されたのだが、前年度優勝校で第一シードのため青道着は作らなかった。
そんな前回王者のプレッシャーもあってか、関東学生の時以上のピリついた空気と追い込みに必死でついて行った。

あっという間に本番。
3回戦は先鋒で技あり勝ち。
準々決勝は山場の明治大学。
2-1で副将の私の出番。引き分け以上でチームは勝ち。指導も追い詰められることもなく、余裕で引き分けれそうだった。時計を見ると残り数秒。1発思い切ってかけてやると背負い投げに入った残り1秒、間が悪く内掛になり反則負け。
相手の払い腰とタイミングが絶妙に噛み合ってしまった。
大将が引き分けてチームは勝利したものの、準決勝には出れなくなってしまった。

チームは準決勝で日本大学に敗れる。
畳に立てない事が悔しかった。
苦い経験だったが、一年生からこの大会に出られた事、大事な場面で戦えた事は糧になった。
そしてすぐに関東ジュニアがあった。
関東ジュニアの後に解散があるので、もう一踏ん張りと切り替えて試合に向けて準備した。

しかし、関東ジュニア前に『臨海実習』なるものがあった。
筑波大伝統の授業で、2時間ほど海で泳ぎ続ける。平泳ぎが得意だった私は、事前指導でタイムを測り、優秀と判断されA班に入れられてしまった。
そして初日から2時間泳がされた。
終わり際、「潮に流されてるからクロールで帰れ」と言われるも、田嶋はクロールが苦手。
クロールと平泳ぎのタイムがほぼ変わらない。平泳ぎで全力を出した瞬間、足がつる。
とりあえず浮いて待機していたら
「どうした?」
「足攣りました、帰れません」
「お前のそういうジョークは聞き飽きた」
と謎の放置プレイで最後の1人になるまでほっとかれた。
「本当にどうしたの?」
「いや、マジで帰れないです」
水泳部の大学院生に引っ張られ、浜に帰った。
自分よりほっそい軽い人に泳ぎで引っ張られる。良い経験になった。笑
この時減量で食事制限していたため、浜に上がってから一人で立てずに肩を借りて歩いた。笑

臨海実習中は軽く打ち込みくらいしかできず、帰ってそのまま試合だった。
この時、準決勝で当時桐蔭学園一年の村尾選手と戦った。だいぶビビっていたが、まだ中学生だなって感じで差があった。
彼とはそれ以降たくさん試合をした。
決勝戦では桐蔭横浜大の選手に開始早々投げられて、頚椎捻挫と肩鎖関節の亜脱臼。そのまま何も出来ず敗戦。
2位に終わった。

関東ジュニアの前後にテスト期間があり、終わって解散。
夏休み明けに草津でのラントレ合宿が恒例だったが、オリンピックの年は、出場選手の練習のために開催なし。
怪我があってあまり練習出来なかったが、毎日2部練か3部練を行い、あっという間に8月末の関東学生個人戦になった。

関東学生は上位7人が全日本学生の権利を得る。
ベスト8で敗者復活だが、ベスト16で関東ジュニアの決勝戦で負けた選手と当たる。
大外刈で一本勝ちするも、その時にまた肩を痛め、次の試合で敗退。
敗者復活戦は切り替えて寝技に集中し、抑え込んでなんとか全日本学生に繋げた。

関東学生が終わって2週間後に全日本ジュニア
組み合わせも良く勝つイメージは作れていたが、初戦敗退。
早稲田大学の選手に指導差で負ける。
自分の良さを全く出せなかった。
自力で負けてないのに、試合で勝てない。
どうしてどうしてと悩んだ時期が始まる。
高校時代の同じクラスだった子が2人応援に来てくれていたのに、情けなくて悔しくて仕方が無かった。

そのまた2週間後に全日本学生。
2回戦で別の早稲田大学の選手にまた指導差で負けた。
これで講道館杯に出れない事も決まった。
試合が面白くないと泣き言を言って父に叱られたのを覚えている。
筑波大に進んだ覚悟はその程度だったのか。と

何が足りないのか、自分をどのように強化して行ったら良いのか、すごく悩んだ。
自分の道を見つけるまで、苦労した。

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