見出し画像

電子書籍でドストエフスキーが読めるんか?


こんにちわ。

きょうも唐突に喧嘩腰の双耳です。
時代錯誤はなはだしい?じゃかしいわ。上等やないか。


あれが捨てられない


わが家は自称ミニマリスト、いや今はじめて名乗ったけど、なんだけれども、一向に減らせず日ごとますます増えているものがある。

それは「本」。

ダメなんだなコレばかりは。

物質を伴わずデータ上に保存できると知っても、画面上で開いたり閉じたりしおりを挟んだりすることができると知っても、電子書籍だけはゴメンこうむる。


「電子書籍お断り。」


電子メディアに日記を書きつけている人間が余計なお世話だが、電子書籍ページのスクショをSNSで見かけるとモーレツにうんざりしてくる。余計なお世話だが。


なんというか、そのテクスト(テキスト)と「遠い」。



電子書籍の「遠さ」


この「遠さ」は時間的「遠さ」ではなく物理的な「遠さ」であり、著者や時代の精神エネルギーとの「遠さ」でもある。

「書く」という行為が、原始、石板を「欠いて」「書きつける」行為だったころ、必ず何かしら物質的に傷がつく行為だった。

紙と筆という文明が誕生すればすくなくとも紙は汚れる。

紙でも木片でも、何かしらの物質を、そのテクストのためだけに汚さなくては残せないものだった。大切な資源をつかってでも残しておかねばならなかった。

「精神発露の痕跡」として残されたものは、「読む」側にも紙という物質を通して指から伝い、それは真に迫るものがある。

しかし今や、肉体と精神からあふれ出るエネルギーを紙を汚しながら懸命に書き留めていた行為から、「指で画面をなでて読む行為」はあまりに遠い。

しかしテクストの肉体感なぞ印刷技術の発達やワープロで原稿を打ち始めるころには終わり始めていたのかもしれない。

現代になると、ちいさな画面上で、ゲームや電話、メールと同等の位置でしか扱われないデータとしてのテクストはもう表現としての特別さを失ってしまった。


実用書と電子書籍


百歩譲って実用書は電子化されてもいい。(←なにさまだ)

さくさく指先で流し読みすることとテクストの中の「知識」を利用することの相関関係にそこまで重大な問題がない。

むしろ「便利だから」電子書籍化がとまらないだろう。



だが「文芸」はダメだ。絶対。



図書の種類


図書には大きく3つのジャンルに分けられると思う。※雑誌・漫画はのぞく

「文芸書」「研究書」「実用書」だ。

この中で「文芸」にあたるものは、およそ「詩」や「歌」「物語」「小説」「古典の随筆」「戯曲」といったものたち。

「研究書」はそのまま科学の学問的資料。哲学や歴史学を含む人文学は文芸との間かな。

「実用書」には「ビジネス本」「自己啓発書」「ハウツー本」など。「新書」は内容によるけど「研究書」との間で、「エッセイ」は文芸と実用書の間かな。


文芸はせめて


先にあげた文芸は、人間の精神に深くかかわっている。文字という媒体で表明された魂の訴え、またはその同時代の人類による神託

これを指で流すような行為は、自らの魂をもないがしろにする行為に等しい。

とは言いすぎかもしれないが。

全てではないが、芸術の中にはその時代に生きた人間の苦しみから生まれるものがよく見られる。文芸とは悲しみを自己から引き剥がす対象化の産物であることが多い。

それを理解せずに「便利だから」とページを繰るのにスクロールを頼るのは上っ面しか触ろうとしない軽薄な臆病者だ。

もっと深いところへ潜れよ。

文芸を電子書籍で読むんじゃないよ。

源氏物語を電子書籍で読んで「エモい」と思うようになったら、人類の魂は次のステージに逝ってしまってるね。


電子メディアの「書く」と「読む」


ご覧の通り、ここでクソの役にも立たない駄文を書き連ねているように、
今や電子メディアは「読む」だけではなく「書く」場所でもある。

ブログをはじめとして、twitterやnoteなど、初めから流し読みされることを前提として書かれたテクストがごろごろ転がっている。

「真夏の果実」じゃないが、砂に書いたような文章ばかりといっていい。波や風や潮であっというまに吹き飛び消えるテクストたちだ。

それは発信側もよくわかっているだろう。

どこまでも刹那的、たったひと息の、一瞬のかがやき、後世に残ることもないある意味かなりニヒリスティックなテクストだ。諸行無常。


ここは墓場かそれとも


そもそも流し流されるテクストのうっちゃり。

はじめからゴミ捨て場で文章を書いているようなもんだ。
死臭と腐臭がする。

だがもう出版業界にのぞみもなけりゃ電脳上で戦うしかない。
ペンは剣なり。

ここは殺し合いの合戦場だ。

あるいは、あだ花の墓場だね。

せめて自分の墓標でも刻みたいが、そんな筆圧は残っていない。


0と1だけのメッセンジャー


サザンにこんな歌がある。

君はいったい誰なの?
いつも闇の帝都でヤンチャしてるけど
メガロポリスを網羅する零一だけの無情なメッセンジャー

「01MESSENGER~電子狂の詩~」/サザンオールスターズ より

この曲がリリースされたのは1997年。
20年以上たっても状況はとくに変わっていない。


「電脳上で書く」ということはつまり「0と1だけのメッセンジャーになる」ということなのである。 


そして


とまあ、ここまで書いて「こういういわゆるオピニオン系?の記事を書くとブーメランのように自らに跳ね返ってくんだよな」

と自省するわけだけど、

確かにいま表現している実感など、ぺこぺこ跳ねるキーボードのかるい抵抗くらいのもんです。

墓場しか相撲をとれる土俵がないもの同士がんばっていこう。


一人相撲かもしれんけど。


一切皆空(^^)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?