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自己啓発本もいいけどたまには文芸もどうですか。


こんにちわ、双耳です。
今日も喧嘩を売るような内容で御免ください。 


文芸の意義

人がなぜ”詩”や”物語”などの文芸を求めるか、というのはむずかしい問いです。

たとえば文芸評論や構造主義、ポストモダン方面に明るい人だったら、インテリジェントな解説をしてくれそうです。ぜひ解説お願いします。

自分にはそういった深い教養はてんで持ち合わせていないので、それはもう得意な方にお任せするとして。

わたしの考えでは、「文芸を求める(読む)理由」はただひとつ。

ずばり「文芸を生み出す(書く)ため」です。

目的はそれだけ。


作家と非作家の違い


ただしそういうと、

「本は読むけど、いやいや私べつに詩人じゃないし!小説家とかでもない。」

と思われる方は多いと思います。

しかし、

「詩人」や「小説家」という括りは、あくまで職業で人間をジャンル分けするための言葉であって、ほとんどの人が日常生活で文字で何かしら表現をしていると思うんですよ。表現といっても大げさなものでなくて、自分の脳味噌から言葉として口や手から出現(表出)したものはすべて自分の文芸(文学)としてとらえてよいと思うのです。

それを商業用に出版社が噛んで冊子にするなり電子化するなり書籍として体裁を整えて値段をつけて売りだすのを生業としている人が、よく知られる固有名詞の「詩人さん」や「作家さん」なんです。いわゆるプロの人です。

人に求められているからこそ職業としてなりたつのであって、やはりずば抜けて「読んで書く」能力が高い人たちしかなれません。


「ため」の意味

先に「書くために読む」と書きましたが、この「ため」は意外と曲者で、

「試験に合格するために勉強する」「生活のためお金を稼ぐ」といった文脈の「ため」ではなく

「明日起きるために眠る」で使うような「ため」であります。眠ることは生理的欲求に基づく自然な行為に思われますが、実は「起きるため」の行動なのです。

よって「書くために読む」という「ため」は同じく自然な接続で、いわば「ウ●コをするためにご飯を食べる」わけですが、そんなことを考えながら食事をするわけではないのと同じということなのです。

今気づきましたが、インプットしたものしかアウトプットできないというのは、「ウ●コ」のたとえに近いですね。


電子メディアの詩人たち


話がそれましたが、
プロで作家として食べていけるほど読み書き能力が高い人がいるその一方で、インターネットが普及してからはtwitterやブログやnoteで文章表現をする人がものすごく多くなりましたね。

つまりあなたのツイートはすべてあなたの詩であって、私のしょうもないテクストもすべて私の散文詩だということです。

「詩人だねェ~」は茶化す言葉になっていますが、実際は、言葉をもつ者は全員詩人ですよ。アマチュアの詩人。


書いた人間がそこにいる不思議なメディア


人類は歴史の上でずっと「読む」「書く」「読む」「書く」を繰り返してきました。これは個人の事象を超えて、人類で行ってきたことです。

「読む」ということは、それを「書いた」ものがいるということで、さらに「書いた」ものはすでにその場にはいないことが条件だったはずなんですが、

SNSをはじめとするインターネット上では、それぞれ別の土地に足をつけているはずなのに、「書く人間」と「それを読む人間」との時間的空間的距離は非常に近いように感じます。

文字のもつ「書き手と読み手は同一場所には存在せずリアルタイムで交流できない」原則はこのインターネット時代になっても変わっていないと思うのですが、今はテレビの中継画面を見ているように、今、ここにいるはずのない人がまさに画面から語り掛けてくるような交流が可能です。


いるはずのない人間と交流ができる不気味さ

根本美作子さんは『眠りと文学ープルースト、カフカ、谷崎は何を描いたかー』(中公新書)の中で、映像と電話という文明が現代人の知覚を変化させたと主張されています。

電話や映像技術と言うのは、「いま、ここ」にいるはずのない人間の現実が、「いま、ここ」にいる自分の現実と重なりあうという奇妙な文明です。

これが人間の知覚に「現実というものは実はひとつではない。多層的なもので、切り貼りできるような断片的なものに変わる」という影響を及ぼしたというような内容で書かれています。

「いま、ここ」にいないはずの人間とコミュニケーションができるなどというのは、行ってみれば「幽霊との交流」。

文明を巫女として、死人の声を聴くようなものだ。


インターネット時代の新しい知覚

これは「インターネット」という新しいメディアにも言えることです。


恐ろしい。同じ場所にいるようにみえるテクストは「読み手」と「書き手」のアイデンティティを剥ぐような、自己同一性が保てないようなテクストになりうる。

同一メディアを使うことによって、おそろしい勢いで他者のテクストが自分になだれこんでくる。同じように自分も画面に打ち込むことで、不特定多数の誰かを放射線のようにテクストで刺しつくす。


これが電子メディア、インターネットの文芸というもの。

すでに人間の知覚は新しい段階に入っているようだ。


だから今こそ文芸を

前田愛さん『文学テクスト入門』(ちくま学芸文庫)で書かれているように、人間は何か経験を文章にするとき、「今まで読んだテクストを引用することでしか書くことはできない」のである。

100%自分がオリジナルな文章は存在しない。

だからこそ、自分が人に求められるような後世に残るような質の高い文章を書くためには、質の高い文章(テクスト)を積極的に読むしかないのだ。

それができるのは「その時代を象徴的に切り取り、普遍の真実を描きだしてきたジャンル=文芸」だけだ。すでに忘れ去られたハウツー本にそんな力はない。

「読んだものでしか書くことが出来ない」

この原則を電子メディア時代の現代人が忘れてしまったら、毒にも薬にもならぬテクストでネットの海がみたされることになる。

そんな海でうまい魚がとれるのか?


ネット時代の知覚を文章にしろ

「書くこと」「読むこと」で自分が自分でない誰かになってしまう。これが今の、電子メディアをアウトプットメディア(出力手段)とするわたしたち現代人の文学におけるセンス(感覚)なのだと思う。

どうせならその新しい知覚で書いたメディア文学を残していきたい。

だが今のインターネットには大きくわけて2種類の記事くらいしかない。

詩を、文芸を、この時代をのこせ。

なにも、物語でなくともいいのだ。

どんどん書いていけ。読んではどんどん書いていけ。
それを読むものがいる。読んだら繰り返し書いていけ。

自分自身をこの時代の巫女として、神託を残すのだ。これが後世、この時代の文芸になることを信じて。

文芸が残るためには、残す人間にリターンがあるような仕組みがあればなおよいのだけど。


文学はつまり自分自身である

読んでしまったからには、あなたも書かなければならない。
食べたものは、出さなくてはならない。生命維持の大原則だ。

さて、あなたも恐ろしい文学と言う沼に足を踏み入れてみやしませんか。


躊躇するというのなら、強引に腕を引きずってしまおうか。

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