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世界は私に託したんだと思う

人生にはきっと、味がする瞬間がある。

こんなことを書いてる自分がちょっと恥ずかしい。恥ずかしいけど書いておかなくちゃいけないことがある。

言葉や思考が自分を形づくるんだとしたら、なにかに影響を受けて、どんな人と出会って、刺激を受けたかを自身の生き方を通して世界に投影しているとは考えられないだろうか?

形のないものに私達は名前をつけていった。
正確には先人たちが名付けた。
例えば愛とか、夢とか、勇気とか。

今を生きる私達はあまりにもその名称に慣れてしまっていて言葉では理解しているつもりで生きているけど本当はなんとなく知ったふうに振る舞ってしまう。

それは本当の意味で理解していないからかもしれない。理解を超えて自覚することや体感することを避けてきたのかもしれない。
子どもが言うことだと一線引いていたのかもしれない。

言葉を真に理解するには、より深く向き合うことが必須条件で頭ではなく心で感じなくてはいけないということを忘れていた。

こころは目に見えないけど、必ずそこにある。
でも直接触れることはできない。
一人ひとり形が微妙に違っていて最初はハマらないパズルのピースのようだけど時間をかけて相手のこころをちゃんと見ようとすれば、心に触れられる瞬間があるような気がする。

わたしたちは他の動物よりコミュニケーションが複雑化していて本心をわかりにくくしている。
感情が複雑で繊細で、嘘がつける、着飾ることで本心を隠すことができる。
思い込むことができるし、決めつけることができる。視覚に頼った生き方をしていると目に見えないものをどんどん見落としていく。
たったふたつしか眼を与えられなかった生き物。
ふたつのものを同時に見られない。
そして心は決して見ることができない。

伝えられない想いを我々は歌にしたり、文字にしたり、訴えたりする。どうにかこの世界にあるもので表現しようとするんだ。そうせずにはいられない。

なんてシンプルなんだろう。

人生は旅だという人がいる。
人生は宝箱だと言う人もいる。
全部正解なんだよ。
問題は"ソレ"を細部まで分かち合うこと。

わたしに信じるものがあるように、あなたにも信じるものがあって、大切にしたいという心がある。

わたしたちは心の中に時々冷たい雨を降らせるけど
時々温かい涙を流したりもする。

そんな瞬間が来たら「これが人生の味なんだ」と思えばいい。

文章力がないからうまく説明はできてないと思うけど、当たり前に過ぎていく時間のなかで何重にも隠された宝物のような目には見えない何かがある。
それを見つけて、心が感じられるかどうかが人生をより豊かにする秘訣なのかもしれない。

私が思っているほど他人を理解したり、自分を理解したりすることは簡単なことじゃないのかもしれない。長い時間をかけてもわからないことはたくさんある。

剥き出しのままの心では、傷が深くなることもある。それでも触れようとするなら傷つくことを怖れずに踏み込んだ先に思いがけない宝物があるのかもしれない。

わたしを取り巻く世界の中で同じ瞬間は二度と来ない。だから違う世界、いつもとはちょっと違う行動、特別な出会いを経験しなければいけない気がしている。 

駄文失礼しました。

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