コロナ禍の思い出:5類指定

2023年5月、新型コロナウイルスの感染症法上の指定に変更があった。

最初は2類感染症とされていたが、5類感染症に変わったのだ。

5類感染症は、「軽く済む人は済む」くらいの位置づけだ。
ワクチンが行き届き、薬も出てきたし、主流となったオミクロン株は秒で肺炎になったりしないし、それなら以前ほどではないよね?
といわれたら、確かにその通りだった。

この時点ではワクチン接種や症状が重い時の治療薬代で国の補助が残ったものの、それ以外は通常の感染症と同じ扱いになった。

国の財政の限界もあるのでは、と囁かれていたが、それならそれではっきり言えばいいじゃないかと思った。

一方、マスコミは「5類」という単語を強調するばかりで、「コロナ禍は終わった」という印象を植え付けることに血道を上げていた。

確かに外国との行き来にも店舗の営業にも制限がなくなった。
でも、この時点で終わったのは2類への対応、いわば戦時体制だけだ。

高リスク者にとっての、命のロシアンルーレットはなくなっていない。

「5類になっても病院ではマスクしろ」というアナウンスは国もしていたのだが、マスコミはそこには積極的に触れてはおるまい。触れたところで頭に入らない視聴者が多かったろう。
病人にとって病院は日常、でも大多数の人々には縁のない場所だ。

5類移行で私が一番懸念していたのは、ここだった。

蓋を開けてみたら、街中にマスクをしてない人が劇的に増えたわけではなく、大病院の待合室ではマスクは当然のように装着されていたのだった。
マスクを消極的に外していく人もたぶん多かった。手持ちのマスクが切れた時点まで、という感じだ。それに通勤列車のような用心した方がいい場所ではマスク装着率も思ったより低くならなかった。

そんな感じなので、気がついたら私自身それほど他人のマスクの有無については気にしなくなっていた。カラオケですらヒトカラ以外ではマスクしてるけど。


これまでノーマスクを訴えていた人々はどうするんだろう?と思っていたが、やはり様子が変わってきたようにみえる。

まずは団結力が弱くなった。

これまでも、同じノーマスク(・反ワクチン)を主張してきた人達の間でもちょっとずつゴールが異なっていたのは観測できてはいた。
マスク不要論にも「ただの風邪ウイルスだからそこまでするな」と「そんなウイルスはない、でっち上げるな」の派閥があって、前者の目的は5類移行で達成されてしまった。

ここに「政府の陰謀」云々の陰謀論を混ぜると話は複雑だ。なんせ岸田政権時代の新型コロナ政策は、安倍・菅政権時代にとった対策を切り捨てる形をとっている。
自民党政権の間でこの転換が起きているので、「自民党政権が残っているのに5類移行」というのも脳内をバグらせる元になるだろう。

マスクが任意になることが目的か、マスクの存在を消し去るのが目的か、政権交代が目的か、もしくは社会転覆が目的か…この時点でも多岐にわたっている。
「ノーマスク」という目先の目的がなくなったことで、本当の目的でバラけているようにみえる。

また、彼らは極端な思想に走った関係で、家族や友人との関係が変わっている。
悪化した相手との人間関係を回復した人もいるが、SNSでは今でもコロナ禍で構築した人間関係が主という人が多数棲んでいる。

彼らのような戻れなかった人々は、今きついだろうと思う。

当然ながら、彼らの友人関係だって人それぞれ。

極端に走った一団は攻撃的なままで、自分達の誹謗中傷のせいで開示請求が通っても裁判で戦うと息巻いている。

ノーマスクの客が入れる店として有名になった店では、かつての常連が戻らず営業を続けられなくなった。

多くの人がマスクをしなくなっても、コロナ禍で過激な言動を繰り返していたばかりに居場所を追い出されたままの人もいる。
ここで周囲に「コロナ禍で変わってしまった」とみられたか「本性が出た」とみられたかで予後に差がありそうだ。前者はまだ戻れる目があるだろうし、後者は厳しい。

逆に隠者のように暮らしつつ、デモを口実にして皆でお茶しに行くのが楽しいという人だっているだろう。そんな風に実質的に付き合う友達が変わっただけの軟着陸ならマシかもしれない。

ノーマスクが迷惑とみられた(実際、私にとっては迷惑だった)時期が過ぎつつある中、落とし所をみつけて振り上げた拳を下ろせる人と、振り上げた拳を下ろせない/下ろす気がない人との差がどんどんはっきりしてくるだろう。
拳を振り上げた理由によっては「イタイ人」から抜け出せないまま人生終えることになるし、でもそういう人ほど助けようがないから仕方がないよね、という流れになるだろう。

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