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三輪山って実は奈良に存在しない?

割引あり

~そこに有る三輪山は幻なのだろうか~~

 私が三輪山の関係者の方とお話ている時に「えっ!そんな事って有るのって?」思うようなお話を聞きました。そのお話とは
『桜井市にある三輪山は表向きの三輪山』
というとても驚くべきお話だったのです!一体どういうことなの?って思いますよね。それではあらましを解説していきますので是非ご覧になってみて下さい。

私が聞いた話というのは

●邪馬台国発祥の地石川県金沢には本当の三輪山が有る

●桜井市にある三輪山は表向きの三輪山

という驚くべき内容でした!

何故ならこの様に石川県て全然現在の三輪山とは遠いですよね?

この様な好奇心をくすぐる事を聞いてしまった私はどうしても謎が知りたくなってしまいました。

【この場所に三輪山があったという根拠をまず示していきます】

 三輪山に伝わる口伝という事ですので一説に過ぎないという可能性もあるとは仰られていましたが、そのようなデータが実際にないだろうか?と私は思い探してみることにしたのです。すると明治初期に未完に終わった皇国地誌(こうこくちし)という貴重といわれる歴史書がありました。皇国地誌の中で一体三輪山はどのように書かれているのか?ご紹介していきたいと思います。

『皇国地誌』についての解説

作成時期:明治初期
目的:明治政府は国土把握には史誌地誌編纂が必要と考え奈良時代の風土記に倣った官撰地誌編纂を計画し政官正院地誌課を新設した。さらに各府県へ所属郡内の全ての村について、詳細な調査報告書の提出を命じた。編纂には内務省地理寮(国土地理院の前身)があてられた。

「皇国地誌」が倣った「風土記」とは一体どの様な物だったのか?
一般には地方の歴史や文物を記した地誌事を指します。狭義には、地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して、天皇に献上させた報告書を示します。

ところが・・・・なかなか出来上あがらない最中の1873年(明治6年)5月5日 宮城火災途中で火事に会うという不運もあったりで余計に遅れたり、そんな紆余曲折を得ても作り続けていたのですが、何と1923年(大正12年)関東大震災により大半が焼失という残念な出来事が起きてしまいました。しかし史料編纂掛(東京大学史料編纂所の前身)に貸し出し中で被災を免れた残稿が存在しました。その残稿により各府県が作成した控えや草稿が一部で復刻出来たので、出版されている。

この「皇国地誌残稿」「郡村誌」(ぐんそんし)と呼ばれ、貴重な資料だと言われています。この資料の中に本来の三輪山の話が載っているを見つけましたので。ご紹介していきたいと思います。

【奈良県の三輪山は本物ではない】

「皇国地誌」では美濃輪山と書き,現地形図の三輪山と全く別の山を三輪山という聖地としています。

そうなると・・・三輪さんのご子孫の方が教えて下さった事が辻褄が合ってってきますし、真実なんじゃないだろうか(代々の口伝だし)と思うわけです。

これは!本当の三輪山を探さなければならないと私は思いました。なぜなら本来の聖地がそこであるという事になるからです

【本当の三輪山を探す】

さて・・・私は山の地図を広げて当核する場所はないか?探し出してみました。恐らく本来の聖地であるため、そちらの方がパワーがある可能性も秘めているからです。探し出したその山とは?興味ある方は是非続きをご覧になってみて下さい。

何と三輪山は実は三つあります!

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