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「自分勝手な人だな」と思う時、最も自分勝手なのは自分だったりする

ホスト業界でアイコニックな存在となるだけにとどまらず、経営者としても注目されるローランド。

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彼の語録で有名なものに「世の中には2種類の男しかいない…俺か、俺以外か。」みたいなのがあるんですが、彼の言葉を借りるまでもなく、この世には2種類の人間しかいません。「自分か他人か」です。

僕はよく地下鉄に乗るタイミングで「自分勝手な奴め」モードに入ります。ほら、いるじゃないですか全然人が降りきってないのに乗ろうとしてくる奴とか。

で、ちなみに僕はそれを「乗り込むサイド」で見てるわけです。つまり自分の権利が侵害されてムカッときたわけではない。大仰かつ押し付けがましい言葉を使うなら義憤です。

「おお、他人のために怒れる僕カッケェ!!!」

ただまぁ本日の論題的に察して欲しいんですが、僕はこれが勘違い義憤だと言ってるわけですね。

そもそも「自分勝手」とは何でしょう。自分の都合しか考えずに公共の福祉を侵害することでしょうか。それはそうかもしれません。

ただ、「その人が公共の福祉に悖るか否か」という裁定は、電車の乗り降りという一瞬のシチュエーションでは下されることはないでしょう。となると問題はシンプルに、「自分の頭の中にいる」「自分勝手な他人」という存在です。

人間のカテゴリとして「自分」を設定すると、その集合の外には「他人」しかいなくなります。ローランド風に言うと「自分か、それ以外か」なんです。

「他人が他人に迷惑をかけている」という、ドライな言葉を使えば完全な他人事。それに対して腹を立てるのって、関係ない第三者が割って入るようなものですよね。仮に苛立ちのまま、それを行動に出したりしたら…。

自分の感情を最優先に誰かに迷惑をかける」。これではフライングで電車に乗った奴と何も変わりません。

つまり、「自分勝手な奴め」という思考はそもそも非常に自分本位なものなのです。

もちろん今回の本旨はただその点であって、「自分勝手な奴め」と思うことの善悪について触れたいわけではありません。あくまで自分を満足させるための行動なのだという自覚があれば、別に何したって良いんじゃないでしょうか。いや、自己責任で。

そもそも全ての人間には自分を優先する権利があるはず。誰かのために怒るというと聞こえは良いんですが、いちいち他人の自由な行動に自分の窮屈さを当てつけているような思考はすごく人生の無駄遣いだと思う、本日はそんな話でした。


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