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下り坂で上は向けなくてもせめて前は向きたい

(アイキャッチ:地元の駅前)

年末年始には何も書くつもりはありませんでしたがやっぱり書いてしまうのが自分の否めない性なんだなと。

どんな一年にしたいか・どんな明日にしたいか

目標や抱負なんかを聞かれると自分はたいていこう答えます。「明日に誇れる自分でいたい」

椎名林檎の閃光少女の歌詞よろしく、現時点が最高地点であり続けたいなと思ってます。でも実際のところいつも矢印が上を向いているかといえばそうでもなく、下を向いていたり、横を向いていたり、が常です。

それでもジグザグしながら、ジタバタしながら、トータルでみたら今日の自分より明日の自分が先に進んでる、そう生きていたいと思います。
水面近くでバタつきながら生きる金魚のように。昔飼っていたハムスターが自分の手の中で看取ったときの、今際のゼエゼエとした息遣いのように。

傍から見ると常に落ち着き、目標へと一直線、のようにも見えているのかもしれないですが、自分としてはいつも不器用にバタバタしている―というよりもこれしかできない―と思っています。

来し方行く末を占う(こしかた ゆくすえを うらなう)

どこで覚えた言葉かは忘れてしまいましたがこんな文句を知っています。これから進む先はこれまで来た道が暗示してくれる、そんな意味です。
この言葉を胸に、自分は何か迷うことがあるといつも自分のこれまでを振り返ります。
本当に気を許せる1人か2人には自分だけで答えの見つからない迷いや悩みを打ち明けますが、たいていは自分に問います。

過去の自分は今の自分にどうあってほしいか
未来の自分は今の自分にどうあってほしいか

connecting the dots
色んなところで使いつくされている言葉、「点と点をつなげ」
この言葉を引きつつもまずは「点を作れ」と言ってくれた知人がいます。点を繋ごうも点がなければなんもないよ、異なるジャンル間の化学反応みたいなものは異なる人同士の間では起こりにくいけれど、同じ人の中では割と簡単に起こせる、そんな風に感じさせてくれる言葉です。

自分より優れた人はたくさん、
しょうもないこともたくさん、だけど。

大学を卒業し、会社で働き始め、この一年間で驚くほど色んな人と関わりました。
驚くほど優秀な人もたくさんいました。ほんの少しでも「すごい!」と思わされた人の数は文字通り数えきれません。

上を見るとキリがありません。ですがしょうもない事もたくさんあり下を見ていてもキリがない、そうも思った一年でした。

理想はあっても現実とのギャップは当たり前にある。
マックス・ヴェーバーは職業としての政治でこう語ります。
「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場からみて―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間、どんな事態に直面しても『それにもかかわらず』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』を持つ」

読み返す度に異なる印象を覚える一文です。理想を掲げるだけでなく現実とのギャップをどう埋めていくのか。「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に穴を―くり貫いていく作業」という前段とも重なります。

もう一つ引用を。
孫子の計篇第一より、「道者令民与上同意」
(道とは人民たちを上の人と同心にならせる〔政治のあり方の〕ことである:金谷訳、岩波文庫)

古典の記された時代では統治者と被治者、上と下の関係でしたが現代では両者は近いかほぼ重なる関係にあります。
いまの世の中に合わせた形で自分が問いかけるなら、「人々の心に政治が寄り添え(てい)るか」といったところでしょうか。先に挙げたヴェーバーの一文には上から下への(誤解を恐れずにいえば啓蒙的な)目線があるように感じますが、自分はこちらの言い換えのような、下から上に向けた問いかけも抱いていたいなと思っています。

自分より優れた人がたくさんいる、そう書きましたがどうも自分は他の人の良いところが先に目につくようで、優れた人が多いと感じるのも―もっといえばほとんどの人は自分よりすごいと感じてしまうのも優れた人が多いと思ってしまう原因かもしれません。

おそらく優れた人の中で自分は最下位、しかし同時にお手本にできる人が無限にいることにもなりますし、もちろん自分であるかどうかという点ではいつも自分は一番です。自己肯定感と劣等感とが同居しているようで不思議ですが、最下位であると同時に一番でもある思って日々を過ごします。

まだ生まれていない人たちにも、
生まれなかった人たちにも、誇れる自分でいたい

2020年、東京オリ・パラがある予定です(今のところ)。
ロウソクは消える間際が最も明るく輝く、なんてことも本当か嘘か知りませんが聞いたことがあります。オリンピック・パラリンピックはそんなロウソクみたいな象徴になるんじゃないのかなと少し悲観的です。でもたぶん開催中はそれなりにノっているんだと思うけれど。

これから先(も)生まれる人の数が減る、人口も減る、そんなトレンドがしばらくは続きますし、おそらくこのままじゃ自分の生きているうちに上向く可能性も薄そうです。
そんな下り坂ムードではプラスなこともなかなか言いにくいですが、自分は(数は減っていくにせよ)これから生まれてくる人たちにも誇れるような選択をしたいです。

下り坂で上を向いてもつまづいて転ぶだけです。かたや下ばかり見ても先が見えません。ならばせめて前を向いて、少しでも緩やかに下る道を、あわよくば水平か上る道を、見つけられればまだ見ぬこれから生まれる人にも恥ずかしくない選択になるだろうなと思っています。

まだ見ぬ人たち。

ふと自分の置かれている世代と人口ピラミッドのことを思い出します。
自分たちの親の世代は団塊ジュニアから少し下にかけての年代です。第一次・第二次ベビーブームの山を見ると90年代~00年代には第三次ベビーブームの山があってもおかしくはありません。

でもそうはなりませんでした。

氷河期や雇用の話は巷に多いですが、自分は生まれなかった同年代の人たちにも思いを巡らせてしまいます。
第三次ベビーブームがもしあったら―もしかしたらクラスメートになっていたかもしれない人たち。友達の親だったかもしれない人たち。これからの世の中を一緒に作れたかもしれない人たち。
ifの話になってしまいますがそんな人は存在しません。
いたずらに人を増やせばいい、という訳でもありませんが人が減るということはそうした可能性が失われた、とも言えるんじゃないかと思っています。

生まれ得なかったタメの人たち。
そんな人そもそも存在しないんだから、とも思えるかもしれません。ですが自分は今いる人はもちろんのこと、その人たちのためにも2020年とその先を生きていたいです。

至らない自分ですが今年もどうぞよろしくお願いします。よこお


尻切れトンボですが最後に最近読んだ本の中から一冊紹介しておきます。

土井隆義『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』岩波ブックレット、2019年。

なんとなく感じる自分たち世代の諦念(感じてるのは自分だけ説あるけど)をそのままとは言わずとも割と近いイメージで表現してる気がした一冊。

※本に触れてるところで試しにAmazonのリンク貼ってみたけどアフィじゃないので気になったらどうぞ、程度に。noteの使い方の練習…