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「英語講師」から「数学講師」へ。二刀流始めました。


#創作大賞2024 #エッセイ部門

「英語講師」から「数学講師」へ。二刀流始めました。

第一章、父の影と私の道:理系から文系への軌跡
 私の父は、一言で言えば、ウザかった。高校入試の合格発表の日、彼は私についてきた。そして、私が就職したときには、彼は2時間以上もかけて私の勤務先である塾まで挨拶に来た。

 私は高校2年生の時まで、理系に進むつもりだった。ロボットを作りたかったのだ。しかし、私が通っていた四日市高校は、当時男子の割合が高く、男子クラスが設けられていた。私はそのクラスに所属していた。

 男子生徒の多くが理系を選ぶ傾向があり、私もその一人だった。しかし、数学の勉強を始めると、めまいがするような感じがし始めた。それは、公式の成り立ちを納得していないのに無理やり使わされることに、生理的な拒否感が生まれたからだ。

  模試の結果を見ると、文系なら難関国立大に合格できる可能性があった。しかし、理系だとそこまでは難しいという結果だった。私は泣く泣く「教育学部」に進むことになった。

 生きていくためには、英語講師になるしか選択肢はなかった。しかし、その英語に真摯に向き合うと、問題が山積みだった。それでも、私は前進し続けた。父の影を背に、自分の道を切り開いていったのだ。

第二章、 英語教育の真実:ビッグワードからシェークスピアまで
 1982年、アメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしていた時、初めて「何かおかしい」と感じた。私の授業は、同席していたネイティブの教師によって頻繁に中断され、彼は生徒に向かって説明を始めた。「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」と彼は解説を始めた。

 私は理科教師のアランに相談した。「なんで私の授業を中断するのかな?」と。彼は私にアドバイスをくれた。「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」と。

   それから、私は注意深く職員室の会話を聞き始めた。そして、確かに彼らは中学レベルの英語を使っていた。私が受験勉強で習った難解な単語などは全く出てこないだ。

 私の塾生たちは、高校で与えられた「システム英単語」を使って単語をたくさん覚えていますが、多分それはムダになる。

 アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思い、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。しかし、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。

 もはや、高校生の時のように「頑張って勉強しないと」と自分を責める気にはなれません。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めましたが、「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」と言われた。それで、「どういう意味?」と尋ねると、「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」と笑われた。

 しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。

 事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで14年間非常勤講師をすることになった。

 その間に出会った英語講師の方たちの中に、英検1級を持っている人はいなかったし、旧帝卒の講師の方もいなかった。資格を持たないと雇ってもらえないという私の見方は誤っていた。

 このエッセイは、その経験を通じて得た英語教育の真実を伝えるもの。私たちは、ビッグワードからシェークスピアまで、英語教育の全てを見つめ直す必要がある。それが、真の英語力を身につけるための第一歩なのだ。

第三章、英語教育の迷路:受験英語と現実のギャップ
 私はかつて受験英語を捨て、アメリカで使われる実用的な英語を用いて資格試験や面接を通過した。それは中学生レベルの英語を駆使して複雑な内容を表現するという挑戦だった。

 しかし、今日、私は再び受験英語を教えている。驚くべきことに、高校や大学の入試問題は30年前と何も変わっていない。受験参考書の構文も、未だに「take it for granted that」や「not until」の世界に留まっている。

 日本にはALTが増えてきているが、「日本の教科書はクソだ」とか「英語が話せない教師が英語を教えている!」と批判しても、誰も耳を貸さない。そして、偏差値追放、小学校から英語を、という意味不明な政策が打ち出される。私が所属する予備校や塾業界も、暴走族講師やマドンナ講師、パフォーマンス重視の風潮が蔓延している。

 そして、それをマスコミが煽る。賢い生徒たちはあきれ返って「マスゴミ」と揶揄している。しかし、一体いつまでこのようなバカな状況が続くのだろうか。

 でも、本当に英語教育界にまともな人はいないのだろうか?私が四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会った学生の中にはまともな人もいた。それで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。

 京大は英語の試験が和訳と英作文という珍しい大学だ。それで、まず「京大模試」とZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。

 ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」というのももらったが、毎回の添削は納得がいかなかった。京大模試の採点も同様だ。それで、

「いったい、だれが採点してんだ?」

と思い調べてみた。しかし、企業秘密で分からない。ただ、自分が勤務していた予備校の講師レベルだろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされていたからだ。

 この状況は、英語教育の迷路のようなものだ。私たちは、その出口を見つけるために、どうすればいいのだろうか?

第四章、英語の壁を乗り越えて:京大受験とその後の成功
 私が初めて京大の試験に挑んだ時、私は「受験英語」で答えを書いてみた。結果は驚くべきことに、全体の60%しか正解できなかった。私の英語力がそこまで低いはずがない。そこで、次に挑んだ2回は、資格試験の参考書に書かれているような古風な口語で答えを書いてみた。それでも、正解率は70%程度。

 しかし、最後の3回目には、私がアメリカで使っていた中学レベルの英語で答えを書いてみた。すると、なんと80%の正解率に跳ね上がったす。これは、やはり京大の先生方が一流であることを示している。

 私が指導している優秀な生徒たちも、同じ感想を持っているようだ。「あの先生が自分で京大を受けたら、確実に落ちるだろう」と、京大医学部に合格した生徒が言っていた。それを聞いて、「この子たちなら、私の言うことが理解できるだろう」と思い、英語の添削を始めた。

 そして、予想通り、またはそれ以上に、次々と京大合格者が出始めた。それだけではない。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部など、どの大学でも、私の指導は有効だった。

 大学の先生方は、やはり賢いです。

第五章、教育の現場から見える真実:大人の責任と子供たちの未来
 私があることを口にしたとき、周囲からは蛇蝎のように嫌われた。それは、日本の社会が和を重んじ、議論を避ける風潮についての意見だった。しかし、私はこの問題を無視することはできない。

 私たちは皆、生活を維持するために働かなければならない。英語が話せなくても、生徒が志望校に落ちても、それは私たちの生活には影響を及ぼさない。だからと言って、その結果として犠牲になる生徒たちはどうなるのだろうか?私たちは大人としての責任を放棄しているのではないか?

 私が北勢中学校にいたとき、英語は最も嫌いな科目だった。成績も良くなかった。数学、理科、社会、国語と同じく、特に意識することのない科目だった。しかし、総合点ではトップクラスだったので、それで満足していた。

 私が試行錯誤を繰り返す中、父は言った。「大学院に行きたいなら、お金は出してやるぞ」と。この言葉は、私の教育に対する考え方を大きく変えるきっかけとなった。

 このエッセイは、教育の現場で見えてくる真実と、大人としての責任、そして子供たちの未来について考えるためのものである。私たちは、自分たちの行動が子供たちの未来にどのような影響を及ぼすのか、常に意識するべきだと思う。それが、真の教育者の責任ではないだろうか?

第六章、数学との闘い:一つの旅
 数学との闘いは、私が四日市高校の2年生だった1970年代に始まった。男子の割合が大きいこの学校では、理系に進むのが一般的だった。私もその一人で、男子クラスに在籍していた。

 しかし、テストの度に数学の点数が壊滅的になるという現実に直面した。全国の模試ではそこそこな成績を収めていましたが、四日市高校の男子クラスでは、どうしても周囲の子と点数を比較せざるを得ません。平均点と比べると、私の点数は常に低かった。

 そして、数学の難しさは点数だけではありません。三角関数、対数、微積分と進むにつれて、「もう私の頭には入りきれない」と感じるようになった。物理で13点を取った時は「こんなのありえない!」とショックを受け、試験用紙をクシャクシャにして捨ててしまった。

 私は数学の公式を使う場合「証明できないと、使う気になれない」というタイプだった。しかし、今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり、気持ちが混乱し始めた。

 このエッセイは、数学との闘いという一つの旅を描いています。数学が苦手だと感じた時、それはただの開始点に過ぎません。それは、自己理解と成長への道のりの始まりなのです。そして、その旅はまだ続いています。

第七章、数学との再会:教育者の旅
 1974年、大学受験が迫る5日前。私は二階の勉強部屋で数学に取り組んでいた。突然、手足が震え始め、椅子から落ちてしまった。私は叫んだ。「お父さん、ボク変だ」。父は駆け上がってきて、私を見て言った。「お前、何をしてんだ」。その後、私は近くの総合病院に運ばれた。

 看護婦さんは私の手足を押さえつけながら、「アレ?高木くん、どうしたの?」と言った。彼女は私の中学校の先輩でした。診断結果は神経衰弱、いわゆるノイローゼ。私は頭がおかしくなることを心配しましたが、医者は言った。「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」と。

 この経験を通じて、「自分は、どうも文系人間らしい」と覚悟した。名古屋大学の教育学部で勉強しているとき「自分は先生かなぁ」と思い始めた。卒業後は英語講師として働き始め、数学に触れることは私にとってタブーになった。それから20年間、ひたすら英語を勉強し、数学は中学レベルだけを教えていました。民間では、英語講師だけでは仕事が得られません。

 しかし、自分で塾を始めると「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」と生徒から文句が出始めました。それで、英語と数学に加えて、理科、社会、国語の指導も始めた。

 やがて優秀な生徒が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも取り組むようになった。そして、ある日気づいた。そういう優秀な生徒からは「高校に入っても指導をお願いできませんか?」というリクエストが入り始めた。最初は英語だけの約束だったのに、中学生と同じように数学の質問も入り始めた。

 それで、私は考えた。「灘高の入試問題の数学が解ける私なら、高校数学も大丈夫かな?」「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」と。近所の本屋に行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。懐かしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。しかし、それは新たな挑戦の始まり。数学との再会、そして教育者としての新たな旅が始まった。このエッセイは、その旅の一部を描いている。私の経験が、あなたの旅に何かのヒントを与えることができれば幸いです。

第八章、数学への道:トラウマからの解放と教育への情熱
 それは、恐怖と興奮が交錯する瞬間だった。手に取ったのは、25年以上前に封印した記憶の箱。その箱を開けること自体が、まだ存在するトラウマに直面することを意味していた。しかし、箱を開けた瞬間、驚くべきことに、25年前の記憶が鮮明に蘇り、私の心は解放された。

 中学の数学を徹底的に教え込む過程で、基礎が固まったのか、それとも中年になってからの精神的な鍛錬が功を奏したのか、その答えは未だに分からない。しかし、私は「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周と、自分自身を鍛え上げた。その上で、Z会の「京大即応」を8年間続け、自分の力を試すために「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。

 その結果、優秀な生徒の指導に必要な力を身につけることができた。成績開示の日、私の京大数学の正解率は7割だった。これにより、「暁6」の特待生や「国際科」の上位の生徒を指導することにも自信を持つことができた。

 しかし、この旅は単なる点数の問題ではなかった。私の内面には大きな変化が起きていた。数学アレルギーが全く消え、トラウマも消え去った。今では「たいていの問題は質問されても困らないだろう」とリラックスして授業に臨むことができる。私の塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルではなく、生徒の質問に答える形式なので、常に本番の状態だ。それが私たちの教育のスタイルであり、私の数学への道の結果なのだ。

第九章、数学への道:文系から理系への旅
 私が19歳の頃、人間が「文系」や「理系」に単純に分類されることに疑問を感じ始めた。その頃から、英語よりも数学の方がはるかに魅力的であると感じるようになった。人間の分類はそんなに簡単なものではないという信念が、私の視点を変え、新たな道を切り開くきっかけとなった。

 文系出身の私が今では「この世の現象は数式で表現されない限り、理解したとは言えない」と信じている。これは、完全に理系の思考。学校では習わなかった「数学Ⅲ」も独学で学び、その過程で30年の歳月が流れた。まさに「少年老い易く学成り難し」の言葉が頭をよぎります。

 しかし、その苦労が報われる瞬間もある。私は自分が指導している理系の女子生徒のような才能は持っていませんが、人の何倍もの努力をして数学を学んだ結果「生徒がどこでつまづくか」を理解することができるようになった。これは、数学講師としては強力な武器となる。

 この旅路は決して平坦ではありませんでした。病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場を拒否されたり、みっともない経験もたくさんあった。しかし、それら全てが必要な経験であり、私を成長させてくれた。

 そして、最も大切なことを学んだ。「とても頭に入らない」と感じることが「わかる!」という喜びに変わる瞬間があるということを。今では、私は英語と数学の両方を教えることができる講師として、働いている。これが私の旅路、これが私の数学への道です。

最終章、時の流れと人生の選択:ある数学者の回顧録
 時が経つのは早いもので、気がつけば高校時代に数式を見て吐きそうだったあの日から早30年。あの頃の私は、今の高校生たちと同じように、2年後、3年後しか見えていなかった。だが、人生は予想外の方向に進むものだ。誰が私がアメリカで生活し、数学Ⅲを勉強する日が来ると予想しただろうか。

 父が亡くなる前、彼は自分が大学入試に落ちた話をしていた。戦争で中国に行ったとも言っていた。彼は大学に行って戦争を避けようとしたのだろうか。今となっては、その真意は永遠の謎となった。

 父が私の進学に強い関心を示していたのは、彼自身の経験が影響していたのかもしれない。もっと優しく接していたらよかったと、今更ながら後悔している。

 皆さんも、今の段階では想像も出来ない経験をすることでしょう。私たちがネット社会の到来に驚いたように、時代は常に激変を繰り返します。そんな高校生の皆さんに伝えたいことがあるとすれば、それはありきたりな言葉かもしれませんが、「目の前のやるべきことに全力を尽くすこと」です。これは、私自身にも言えることです。

 そして、何よりも大切なこと、それはご両親を大切にすることです。人生の選択は無数にありますが、家族の愛は何にも代えがたいものです。それを忘れないでください。

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