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責任を自分の為に使う

年の瀬に言うのもなんですが「責任」は自分の為に使う言葉だな、と改めて。


責任というと、どうしても「これは誰の責任であるか」とか「あなたにはその責任がありますよ」とか、だいたいそういう使われ方になってしまうけど、ではその責任が自分に向かって降って来ると分かった時に、なんとなく、ぼんやりとした違和感がありませんか。


「責任ね、うん、確かにそれはそうなんだけど…えっ、そうだっけ?私はなぜ、誰に、どの範囲で、なんの責任を負うんだっけ」


という局面、ありませんか。僕はあります。

理由の一つには責任という言葉の意味がはっきりしていないということがあると思うんです。これだけ浸透して使用されているのに、「責任ってどういう意味ですか?」と聞かれて明確に答えられる人は結構少ないんじゃないでしょうか。


調べてみると、どうも責任という概念が日本に入って来てからは歴史が浅く、更には本来の「responsibility」の意味から離れて、単純に義務であるとか、またはリスクや罰を負うというニュアンスに重心をおいて使われてしまっているという背景があるようです。

なので担当者は責任という言葉をどうしてもポジティブに受け止められず重みだけを背負わされた気分になるし、周囲にも大義名分の付いた咎めの方向性として認識されてしまう。これがなんだか違うんではないかなあ、勿体ないなあと。


だからといって、責任を負うことなくのびのびと行動する方が成果が出るでしょうということを言いたいわけではなくて、話は冒頭に戻りますが、「責任」は自分自身に向けて使用した方が、物事を進める際にうまく作用するように僕は思います。


元々、責任という言葉には失敗したときにはなんらかの罰を負う可能性を持つという一方で、「自由に選択できる権利」つまり意思決定の側面が存在しているはず。

けれども、人から任されるときにはこの意思決定の側面が備わらない、もしくは不完全な状態で明け渡されてしまう為、重みの方だけが降りかかってしまう。どちらにしろ任されるのであれば、自ら公言して責任者となった方が健全であるという気がします。


具体的には「あなたがその責任を担ってくださいね」と言われる前に「私の責任でやらせてください」と言ってしまう。責任と権限を一致させる。なんなら後出しでもいいので、能動的に意志を入れ込んで当事者意識と緊張感を正しく味方につける。

例えるなら腕章みたいなものかも。責任は押し付けられるものでも仰せつかるのもでもなく、もっとフラットに、明確に立場と権限を示す形で使われるべきではないかなと思います。


とはいえ実際には、誰か個人が責任を負うという場面自体、そんなに多くはありません。「みんなの責任だよね」といった合意で全体や団体で責任を被ってしまうことも多い。責任の所在を曖昧にするというか、曖昧なものに責任を所在させてしまうというか。

一応の責任者がいる場合にも、「責任を負わされるの待ち」から始まった状態は速度と頑強さに欠けます。任せる側には責任を負わせた責任が生じるわけだし、誰かに責任を与えたようで誰も負っていない状況は、たぶん簡単に(かなり無意識的に)作れられてしまい、張りがなくなる。


だから、自分が信じるものがあって、未来の発言や行動に対して責任を得る機会があるならば、自分の為にも、達成される成果の為にも、自ら手を挙げ、意志と立場を兼ね備える形で、責任を着衣していけるのがいいなと思います。


2016年もそろそろ終わり。来年はもっと自分の感覚を大事にしたいところです。2017年も、どうぞよろしくお願いします。



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