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チャットGPT

今話題のチャットGPTが医師国家試験の合格したそうだ。

臨床医は別として、いよいよ研究医の存在まで、社会から減少していく職業として、殿堂入りする日も近いのかもしれない。

実はこの3月に、ある専門職を育成する学校の卒業式の祝辞を依頼された。
議会と直前に迫る統一地方選の準備で、正直、頭の中がいっぱいいっぱいになっていたことから(決して手抜きするつもりは無いが)チャットGPTに挨拶文を作れ!と入れてみた。

一読したが、そこそこの祝辞が出来てきたのだが、読めば読むほど、違和感を感じる。言葉の言い回しも何か変だ。何なんだろうこの違和感と思いつつ、悩んだ結果、GPTが作った祝辞の修正を始めた。

こんな事だったら、初めから自分で作ればよかったのではないか。と、思いながら、添削をしながら思ったのだが、この祝辞の一番足りないものに気が付いた。

「そこに愛はあるんか」である。


AIの能力は、果たして人間を超えることが出来るのか。

何かを質問した際に、蓄積されたデータを演算・処理し、回答へとつなげるという能力は、人間の処理能力とは違う。単に答えを導き出すのであれば、AIの方が効率的であり、圧勝であろう。

そして、同じことをやれと言っても、人間は行うことはできない。
何故なら、人間には「感情」という厄介で、尊いものがあるからである。

例えば音楽や本であれば、情報を取出す際に記憶した時の感情、もしくは思い出のようなものが付け加わることによって、情報を引き出すスピードに違いが生じるであろう。

AIには、そんな感情はない。何故なら、情報を蓄積しただけだからである。そこから必要な情報を引き出す処理能力は、人間が勝てる訳がない。

また、人間の情報はいつまでも記憶されない。
下手したら、昨夜の夕飯のおかずも忘れていることもある。

仮に記憶されていたとしても、その時の「感情」で違った解釈で記憶されている可能性もある。二日酔いの朝に気が付く、昨夜食べたつもりのプリンが、実は茶碗蒸しだったりするのと同じように。

AIが囲碁の世界チャンピオンに勝ったことがある。特に不思議ではない。何故なら、そのAIは囲碁に勝つことだけを目的としているからである。

厄介なことに、人間には戦う際に生まれる勝敗への「緊張感」や、経験から生まれる「余計な心理戦」といった、AIには必要のない「感情」を持っていることから、それらが勝利への足手まといになるのであろう。

仮に先般、世界中に感動を生んだ、WBCの侍ジャパンの優勝に置き換えると、AI監督と栗山監督と、どちらが効率的に勝利できたか。

準決勝で村上の逆転サヨナラ打を計算できていたのか。また、決勝で大谷VSトラウトを予測できていたか。AI監督だったら、8回にダルビッシュを登板させたか。

など、勝つことだけを目的としているAI監督だったら、どのような戦略を立てたか謎が深まる。

この先、人々が分からないことをAIに質問することによって、考えることや悩むという作業を忘れてしまうのではないかと懸念する。特に成長期の若者が、それをしなくなったら、将来、世の中の志向や発想はAIにコントロールされる時代が来るのかもしれない。

喜怒哀楽や様々な感情を持たないAIを、それらを持った人間がバランスよく、より良い社会を築き上げることを、「神頼み」しながら期待する私であった。