自分は、なにもかも中途半端でよくない

人生やっちまった。

こればかりは、全て自分の責任だし、背負っていくしかない。だけど、なんの覚悟もないので、宙ぶらりんな状態で生きている。

自分は男性で、健常者で、生育歴には多少問題があるけれど、どれも思春期を過ぎてからのことなので、家庭環境が悪かった、というより、おれ個人の問題で、仮に、この生きづらさに、なんらかの名前がついたとしても、そのことで「生きづらさ」が解消するとは到底思えないし、病院に行って、何らかの診断名がくだったとしても、自分は、それを「逃げ口上」として使ってしまうと思うし、もしかしたら人を攻撃するときに、武器として使ってしまうかもしれない。だから、自分の決定的にだめな部分(暴力性を持っている)という事実から逃げることは出来ないだろう。

自分は、

男性/女性
健常者/障害者
ネイティブ/移民

という二項対立に於いて、おおむね左側に位置するので、社会で戦うのに有利な属性を持っている。こんなに社会的に優遇されているのに、こんなにだめなのは、すべて個人的な怠惰の集積である。

ちょっと飛躍するけれど、「努力したら、誰でも報われる社会」を目指すのが、リベラリズムの本質であるとするならば、ネオリベは「報われない人間は努力をしていない」と転回させるから、それが世の人の反感を買う。

いずれにせよ、この世界を生きぬくためには努力しなければならなくって、高橋利明という人間が「努力していないからだめなのだ」ということについては、世界で数えて、ざっと100億人くらいの人間が納得するロジックだと思う。(世界人口超えてるけど)

自分の何がだめかといえば、ただただ生産性がないことがだめで、自分は、その点に於いては、もうどうしようもない程、暴力的な支配者として存在し続けている。

社会の役に立ちたいと気持ちもあまりない。そういう発言をしてしまうところも、シチズンシップに反している。そういうところが、ひたすら有害であり、存在してはいけないタイプの人間だけど、変わるつもりも、以前ほどなくて、なるべく怒られないように、ちまちまと、せこい立ち回りをしながら、やりすごして、生きてきたし、これからもそうすると思う。

努力から逃げて、いやなことから逃げて、めんどくさいことから逃げて、なにもかも中途半端なまま、年を重ねていったら、こんなモンスターになっていた。

こうやって、自分の自我を書くことも、誰かの気を惹きたいという祈りであり、そんなところにも自分のあさましい魂が感じられますね。

いっそ、「嫌われてもいいや」、と、ふっきれちゃえば無敵なんだろうけど、本当は嫌われたくない、好かれたいから、うじうじしているのであり、そこがまた自分のきもいところであり(自分が、ぎりぎり嫌われずにすんでいるとすれば、それがあるから)

あるいは、こうやって自分で「おれってきもいから」と言うことで、何か、それを盾に使っているところもあって、自分という人間は、そういった、すべてが、あさましい考えをもった、あさましい存在であることを表明している。

この自意識のうねりがまた、自分にとっては愛しい部分でもあり、世間にとっては害悪そのものでしかない部分なので、読者からきっと、きもちわるがられているんだろうなあ、と思う。(こんな文章を読んでる人がいれば、の話だが)

一体この文章は、誰に向けて書いているのかわからない。自分はそもそも誰かに矢印を向けた発言をするのが苦手だ。(誰かに矢印を向けることから逃げている)

自分が、誰か向かって話しかけることは許されるのだろうか。最近は誰かと1対1で話すことに、リスクを感じる。自分が「誰かと個人的につながる」というのは、ハイリスク行動である。
特に、自分のような、低スペックのおじさんは、なるべく人に話しかけない方がよい。お互いにとって、その方がよい気がする。(あんまり面白いことが言えないし、話すのも聞くのもへたなので、喋っていても退屈させてしまうことだろう)

だから、個人LINEや、DM、帰りの電車が一緒になること含めて、本当に必要なときや、やむおえないとき以外は、なるべく1対1のやりとりはしない。(本当はしたい時もあるけれど、こわすぎる)

自分は、誰に話しかけるわけでもなく、狂人のように、空にむかって言葉をはくことしか出来ない。これからは、そういう言葉の使い方しか出来ないんじゃないかなあ、って気がする。自分は、それが出来る場所を探しているんだと思う。(読書会とか、哲学対話とか)

そういう場所があるおかげで、何とか社会とのつながりを保っている。それでも「人とつながっている」という感覚は得られない。

(自分は「言葉」をあまり信用していないんだと思う。そのおかげで言葉を優雅に扱うことが出来るけれど、人間に対しては、いつも疑心暗鬼である)

幸せになりてーなー、と思う。
わがままだと言われたら、それでおしまいだけど。

自分は、居るだけで吐き気を催すほど穢い存在なので、そこから抜け出さない限り、能動的に人と関わっちゃいけないということを知っている(自分は別に醜形恐怖ではない。自己肯定感も高いはず。ただ、事実として、そうだという)そんな人間が、どうすれば「居てもいい」と思えるか、わからない。それは個人ではなく、社会が決める事だろうと思う。

だけど自分は「社会に決められたくない」とも思う。だから、居ちゃいけない場所にふんぞりかえって、それで「ヨシ」としてしまう事もある。そのへんが、こんがらがっている。(そもそも、どのレイヤーで「社会」をとらえればいいのか分からないけど、ここでは多数決を想定している)

こんな文章を書いていると、すごく悪いことをしている気分になる。だけど、もっとたくさん、こういう文章を書いて、最悪の人間になりたい。何もかもをあきらめて、誰からも心配されないぐらい、しぶとくなって、最悪の人間として、最悪なまま生きていたい。だけど彼女も欲しい。

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