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"基本的馬権"が成り立たないワケ

 最近Twitter上で「基本的馬権」という言葉がトレンドに乗るくらい流行りました。


 こちらがその発信元ですが、これには多くの方が違和感を覚えたようです。
 殺到したツッコミを眺めていたのですが、権利の概念が世間的には曖昧なままであるなという印象も受けました。ツッコミを入れるということは直感的には本質を理解しているのを現していますが、具体的に説明しようとすると多くの方が難しいと感じるものかもしれません。

 今回は人権を基礎から説明しながら「基本的馬権がどのようにおかしいのか」を解説していきたいと思います。
 ※「人権は十分分かってるよ!」という方は目次の「基本的馬権のおかしさ」から読み進めても問題ありません。前半から読むとより詳しく分かるようになっております。


なぜ「人権」が生まれたか 王権神授説と基本的人権

 要点をかいつまんで解説していきます。

 人権の概念が生まれた場所はヨーロッパですが、そのヨーロッパを長く支配していた社会を運営する理念は王権神授説というものでした。
 これは強大な国家であるローマ帝国がキリスト教を国の基本宗教と定めた後に、国を支配する権力と宗教の理念を組み合わせる必要性が理念誕生の背景となりました。これは聖職者達が聖書を解釈し「神が王に人々を支配する権利を与えている」というお墨付きを王に与えるという形で成り立つものです。

 これは世界を創造した神が王の権利を認めるという理屈であったことから、世界の成り立ちから自然の仕組みに関することまで聖書を基準に教会が説明をしなければならなくなりました。もし聖書と矛盾する説(星の運行などの自然科学や聖書読解も含む)を認めてしまうと、教会が裏打ちしている「人々を王が支配する権利」もあやふやなものとなってしまうからです。
 なので人々から新説が提唱される度に王も教会も「異端」という言葉を用いて、その発想の自由や科学的な研究の抑圧を行い、それは非常に長い間続くものとなりました。
 ガリレオの「それでも地球は回っている」の一言で有名なエピソードにはこのような背景があったわけです。

 その支配が続く長い間は、多くの人々が「なんか教会と王のいってることおかしくね?」という疑問を持ちながらも様々な研究や創作活動を迫害を逃れつつ続けていました。その精華の積み重ねが花開いたのがニュートンとジョン・ロックのコンビの仕事です。
 ニュートンは科学的証明がいかに確かなものなのかを示したのと同時に、確かさを証明し理解する理性の力の存在を揺るぎないものとしました。
 ジョン・ロックは人間の基本には理性が備わるとし、その平等さを基礎とする国のあり方を提唱しました。
 それまでの多くの人の研究や発想の積み重ねの上でこの二人の仕事は大きな力を発揮し、国の枠を超えてその理念は広く理解されていきました。

 「基本的人権」は王や庶民や聖職者といった階級制を批判しながら「人は生まれながらにして平等である」と示した思想でした。この思想そのものを理解する基礎とされた「理性」は、「人権」を扱う上でのキーワードとなっていきました。
 人権と理性を基礎とする自分磨きの思想を「啓蒙思想」と呼び、思想の広がった時代を「啓蒙時代」と呼びます。広がりとともに人権を基礎にする国家像も受け入れられていきました。
 この理念自体はキリスト教的な要素を大きく持つものでしたが、理性というキーワードは宗教や人種などで制限されない普遍性があったため、日本でも人権思想を取り入れることは可能でした。


基本的人権とはなにか

 まずこの「基本的」とは「人が生まれながらにして持っている」という意味です。
 国家像の基礎として「人間には理性や意志が平等に備わる」を置くアイデアなので、「人権」は国と個人(自分)の関係性を指すものが多くを占めます。

国や王ではなく自分自身で信仰する自由があると示す 信仰の自由
理性を磨き判断力を確かなものとするための 学問の自由
社会をより良くする個人の集合である私達の議論を守る
 表現言論の自由 出版の自由
そもそも身体を拘束されたら権利を発揮できないことから
 身体の自由 生命の自由
社会のルールを決める政治や議会に参加する権利である 参政権

 このように「皆とのつながりで成り立つ国」と「個人」との間で定めるルールの基礎を定めたものと考えると分かりやすいといえます。

 人権が生まれる前までは聖職者と貴族が国の権利や資産や人々を支配していました。そして人権思想の一般化した国では国を運営する責任は国民一人ひとりに移っていくことになります。よって、啓蒙思想の時代は多くの国で「市民としての真面目に取り組む姿勢」が重視されました。
 宗教が説いていた「徳目」そして「教育」や「礼儀」などが改めて重んじられた(王が人々の宗教を定めていたのが個人の自由になったのも影響している)ため、一言で言えば「おかたい時代」であったという特徴があります。

 日本では明治維新以降にその動きが現れますが、人権や理性や科学における多くの単語が新しい日本語として生まれた時代という特徴も生じました。
 幕末の頃の「西洋の知識を取り入れなければいけない」と奔走する人々のエピソードを皆さんも見たことがあるかもしれません。明治維新以降から戦前までの丸眼鏡の学生さんがドイツ語で難しいことを言っていそうなイメージやジブリの「風立ちぬ」の登場人物のような生真面目さや学問の探求を重んじる風潮、また礼儀正しさなどが印象として際立っているのではないでしょうか。

 人権の理解に大事なのは、「権利の概念」を理性の力でしっかり理解することと、権利を自分の意志でいかに発揮できるかを考えることです。
 「基本的人権」の理解する重要な鍵にあたります。


 「他の人種は知性を持っていない」という誤解から歴史的には悲惨な出来事が数多く起きました。
 人権はそもそも個人を基礎にしており、私も他人も理性や意志を持っていることを意味しています。勉強は平和を保ち自分の才能や社会を発達させる源とされました。元々は人間の可能性と多様性に対する寛容の幅を広げようという方向性が人権思想の基本に備わるものだったのです。
 ちなみに「フェミニズム」の発祥もこれが深く関わっています。
 西欧の言語の仕組みと深く浸透していた宗教教義から「人権は性別で左右されるもの」という誤解が生じてしまいました。それに対して行われた「参政権の平等を求める社会運動」の中で「フェミニズム」という標語が用いられたのが言葉の発祥です。


基本的馬権のおかしさ

 以上のことを踏まえると「基本的馬権」を成立させようにもさせられないのが明らかになってきます。
 まず「権利」の概念を「」が理解していないといけません。
 理解していないと権利を行使できないからです。

あえて真剣に「基本的馬権」を考えてみますが、
・自由に食料を探すための 食料探索の自由
・食料を探したり危険を避けるために速く走る 疾走逃走の自由
・群れで生きるための 本能的集団生息の自由
・人間との共存を選ぶための 人間との共存の自由

 などが考えられるでしょうか。
 しかし、どう見てもこれらは全て「人間が考えたもの」です。馬と一対一になった時に馬に求めてもこれらは一切返ってきません。

 ここからが重要なのですが、もし権利の概念を曖昧にして「基本的馬権」を認めてしまうとどうなるでしょうか。
 まず馬の所有者が「基本的馬権」の提唱者に従わなくてはならなくなります。
 そうなればこれまでの培われた馬と人間との文化も関係性もへったくれもなくなってしまいます。馬具を作る人や馬を取り巻く多くの職人の技術などもすべて謎の「基本的馬権」が否定することになってしまいます。
 なぜなら確認不能の「馬による馬権行使の意思」を優先しなくてはならないからです。

 でもそれを今示しているのは「基本的馬権」の提唱者だけですね?
 このようにしておかしなものであると分かるわけです。


 この言葉の裏にある心情を表せる言葉を探した場合は「動物愛護」に近いとするのが適切ではないでしょうか。(近いだけ)
 これは人間が主体で動物を対象に行う社会運動の言葉です。

 そしてもし「動物愛護」だったとしても、他人の馬の扱いや馬の写真を否定することはできません。あらぬ指摘を受けた馬の写真はそもそもは治療の過程の写真ですね。
 動物愛護だと言い換えたとしても、柔軟さや事実を正確に把握する理性の力の重要さが再確認されます。


基本的馬権に対する反応

 今回は権利や人権の概念から始まり「基本的馬権」のおかしさを解説してみました。
 元ツイートへのツッコミを眺めると、多くの方が「成り立たない」のを直感的に理解している様子が見て取れます。

 ただ昨今は「基本的人権」がどのように成立するのか。あるいはそもそも人権とは何なのかが極めてあやふやにされているのが現状です。
 それはつまるところ「『基本的馬権』をおかしいと説明するにはどうすればいいのか」という疑問に対する答えにも、そのあやふやさが及んでしまっていることを意味しています。答えを探すのは難しい状況といえるでしょう。

 今回の記事は「基本的馬権の何がおかしいか」その理由を言葉で説明する際の一助となるのを期待しつつ書いたものです。


 人権とは、その成立に千年単位の時間と人々の努力の積み重ねの背景があります。そして成立後は勝手な解釈や悲惨な出来事が現在に至るまでつきまとうものでもあります。
 学校でも知識として教えられている経緯ではありますが、今回を期に改めて再確認してみるのはいかがでしょうか。


 もし、基本的馬権の提唱者が「馬にも理解する理性と行使の意思がある」と言い出した場合にはどうすればいいでしょうか。

 その際は、提唱者から理性と意思の存在の証拠が提示されない限り従う義務はありません。それと同時に動物愛護の観点から提唱されている真っ当な問題提起に関心を払えばよいということです。


2021年3月17日
高橋しょうご

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