文章を読むこと、文章を読む勉強をすること

大学受験の勉強をしていたとき、通っていた予備校で現代文の先生から「文章の読み方」を習った。やり方は徹底していた。文章を読む方法にはいくつかあるが(黙読、音読…)、その中でももっとも面倒な方法を課された。写経である。

次回の授業までに、次に扱う文章を音読した後、最初から最後まで一字一句違わず書き写してくる。ただし、字はいくら汚くてもいい(後から読めなくてもいい)。その先生の考えでは「文章を自分が読みたいように読んではダメ」(意訳)であり、「文章が頭を滑る」のを防ぐために、そうした写経を行うのである。いわゆる読書法(速読法)の要諦は、①目的をもって読む、②既知の部分は飛ばす(未知の部分だけ読む)というものであるが、こうした方法に比べれば、なんと効率が悪いことか(効率が「悪そう」に見えることか)。

ただ、こうした方法で文章を読んでいると(書き写していると…)、半年もすると読解力が上がってくる。文章の読解力ではない。文章の向こう側の「筆者」の読解力である。漢字と仮名の割合、接続詞の使い方、句読点の使い方、一文の長さ、改行のタイミング…。文章を書き写すことによって得られることは、内容の深い読解もさることながら、「筆者の息遣い」がわかるようになることである。もっとも、それが「問題」を解けるかどうかとはまた別問題なのだが。

私は大学受験後にも公務員試験を受け、そこでも文章読解というものをやった。その練習問題を解いていたときに「あれ? この文章の感じは…小林秀雄だな?」みたいな感じで、その文章の「息遣い」から筆者を予想することができるようになっていたことに気がついた(同じ文章を読んでいたわけではないが、「文体」から筆者を予想できた)。そのときに(大学受験から4年後である…)、自分の中の文章読解の能力が、大学受験の勉強によって培われたことにようやく気がついた。

文章を読んで問題に答えるなどということは、試験でしか問われない。しかし「文章を読むこと」は、生きている限り続いていく。学問をする上でも、仕事をする上でも、生活をする上でも。とすれば「試験で高い点数をとる力」は、短期的には意味があっても、長期的にはそこまで意味がない。一方で「文章を読む力」は、短期的にはそこまで意味がなくても、長期的には意味がある。

私の勉強の仕方は、大学受験のときの試験勉強がベースだ。幸運なことに、私に教えてくれた先生方には、国語も数学も英語も、試験で点数をとる力ではなく「そもそもその教科によって得られる力」を伸ばしていただいた。おかげさまで第一志望の大学には落ちたが(え?)、こうして何年も経ってもそのときの勉強が、私の力として実になっている。

なんて文章を書きながら、その先生は今何してるのかな? と思い名前で検索してみたら、何やら記事が出てきた。ここまで読んでいただいたのならば、是非こちらも(こちらを)お読みください。

一度「絶望」を知ってゼロになる浪人生、捨てたもんじゃないhttps://gendai.ismedia.jp/articles/-/59977

“生徒の人生を狂わせる”人気講師が明かす「予備校の存在意義」https://dot.asahi.com/aera/2018091900012.html?page=1

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