私の「できない」に私が驚く

 私は物分りのいい人間である。どういう意味で「物分りがいい」のかというと、個人的な最適と全体的な最適を分けて考えて、個人的な最適よりも全体的な最適を優先することができるという意味において、物分りがいい。あるいは、自分の感情を脇に置き合理的に考えることができるという点において、物分りがいい。たぶん。

 そんな物分りがいい私であるが、今日、あることができなかった(「あること」については詳述しない。主題は「あること」の是非ではない)。そして、それに我ながら驚いた。まさか「できない」とは。そのことは別に難しいことではなく、反社会的なことでもない。何人かでそれをやると決めたとき、私は個人的には嫌だったが、やることにした。強制ではない。参加の意思確認をされて、やらないと言った人もいる中で、私はやると言った。嫌だったが。

 そして今日、直前で私は「やっぱりやらない」と意思を翻した。直前まで考えたが、そのことは私の感情に、というよりは信条に反するものだった。周りの人にとってはいい迷惑だっただろう。そのことについては反省している。やらないなら初めからやらないと言っておくべきだった。

 そういった周りの人の迷惑とは別に、私は私の行動に驚いた。まさかやらないとは。いや、部屋を片づけると言って片づけないとか、時間を守ると言って時間を守らないとか、そんなことはいくらでもある。しかし「あー、めんどくせえな」という意味ではなく、心の底からやりたくないと思って、実際にやらないということがあるとは。物分りのいいこの私に。

 キングダムハーツ風に言うと「心が命じたことは 誰も止められない」というやつ。もっとも、今回のものは正確に言えば「誰にも止められなかったということは、心が命じたことだ」という命題(逆)になるが。

 意思により「しない」のではなく、能力により「できない」のでもない。今回、私の身に起こったことは、信条により「できない」というものだった。宗教チックなところもあるが、こうしたことを忘れずに蓄積していけば、私の価値観を自覚することができるのかもしれない。

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