note表紙_

それぞれの。『マチネの終わりに』

人形を作り、それをつかった写真作品を作っているサイトウタカヒコです。(Portfolio Website:http://saitotakahiko.strikingly.com)
↑ホームページの作品など見やすくなりました!よろしければご覧ください!

先日、毎日新聞・note上で連載が終了した小説家の平野啓一郎さんの
連載小説『マチネの終わりに』
との4月渋谷にて予定されている
連動展示企画に参加しています。こちらの方もよろしければお越しください。

◇note上では昨年の3月11日から『マチネの終わりに』は連載が始まりましたが、今回の連動企画へのお話をいただいたのは年の始め頃だったので、私にとってはまるまる1年がたったということもあり、前にnoteに書いた年齢の節目の話のように、つい山の上からたどってきた道をぼんやり眺めたくなるような気持ちになりました。

一番最初に「新聞での連載小説」という話を聞いた数日、朝の電車の中で新聞(もしくは小説欄)を読む人の姿をずいぶん探したのをよく覚えています。(勿論、今は携帯でも見られるデジタル版もあるのですが…)

そして思ったような姿が見つけられなかった後の慌ただしい電車や駅の様子を見ながら、「連載小説」の意味のようなものを考えたりしていました。
・・・こうやってくると大分、上段構えな書き方になってしまうのですが…。

(↑昨年の4月。リサーチのため、どしゃぶりの雨の中を半蔵門にはじめてギターのみのコンサートを聴きに行く。小説にもでてきた武満徹の作品も演奏していた。)

◇連載が始まり、私はこのnoteで『マチネの終わりに』を読み始めました。

…すると私が思っていたような事とは、まったく思っていないような感覚がありました。それは平野さんが連載終了後に書かれていた
「ページを捲りたくない、このままずっとこの世界に浸っていたい」
というまさにその感覚でした。

「この瞬間が止まっていてほしい」。蝋燭の輝く小さい火を手のひらで包みたくなるような・・・といってしまうとキザかもしれませんが、そんな感覚です。
鳥とか子犬のような小動物とかそういうものより、もっと繊細なもの。

(↑連載中盤から後半へかけての、『マチネの終わりに』への制作イメージ。
 現在はまたちがうイメージで本作品を制作中)

◇ひとつの小説と一年以上、日々を共にすることで生まれる小説への愛情(時には心配)ももちろんそこにはあると思います。
しかし、この気持ちのもとには、やっぱり5年前の東北での震災。そしてその後に続く流れてきたここまでの時間のことがあるのでしょうか?
あの出来事とそれから今日までの色々なことのあった時間。
(他の人々よりは、些細ではあるかもしれませんが、生や死。人生のようなものを今までより少しつよく・多く過ぎていった時間だったと思います。)

・・・それらがなかったとしたら。その時、『マチネの終わりに』をどう読んでいたのか。私にはちょっと簡単には想像できません。

それらを経ていたからこそ、あのパリのアパルトマンの一夜や、蒔野と先生の祖父江とのベンチでのやりとり、そのひとつひとつがより愛しく感じ、
そしてなにより最終回のあの瞬間が感動的だったのではないでしょうか。

そんな繊細なものを包む、手のひらこそ
私にとっての「幸福の硬貨」なのかもしれません。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?