ある日の朝ーー
小鳥の囀りに始まった何気ない朝日が差し込むこの日も私は、出勤前の目覚め悪い目と頭をこすって考えていた。
私はいったいどこまでが私なのか?
いやむしろ、どこから私は私なのだろうか。
すでに目覚めた今の意識は私を自覚させているが、寝る前も私だった。
連続する意識は絶え間なく私のはずで、しかもどうやら寝ている時間があるらしい。
その瞬間私は私なのか、私が私を手放しているのか。
自我の迷い、疑問が自我を蝕んでいくような感覚は次第に意識を支配していた。
物心という言葉がある、その人の最初の記憶はおそらくとても曖昧だ。
たぶんそこから始まっているはずなのだ。
始まりが曖昧なように、一生が終わるときもいつの間にか終わっているようなものなのだろうか。
そんな思考を走らせながらもすでに、通勤の電車に揺られている。
生き物はこの地上に数多く生息し、そのほとんどは一生を思考することなく全うしていく。
ということは記憶や思考は生きるうえで意味を持たないものなのか。
そんなことを思っていると電車が駅に着く。
降りていく人々の流れに乗りながら、自分は自分の通勤路を歩いていく。
この駅で降りた人はそれぞれが目的を持ちながら、それでいて同じ行動をとっている。
他の生き物から見れば人間の行動も統一されていて、原因と結果が伴って習性になっている。
アイデンティティーや自己表現が叫ばれる現代に逆行するかのように、行動を切り分ければ人間は至極シンプルだ。
個人的生物が社会的生物になって出勤し、それが終わるとまた個人的生物に戻っていく。
そんな個人的生物が個性を出すためには社会的生物として光らないといけないとはなんとも皮肉だ。
我々は個人では個人として輝けない。
そんなパラドックスがちっぽけで儚い。
そんなちっぽけで儚いなかにロマンを見出す。
そんなロマン思想にふける自分を現実に引き戻すように、会社に着くと社員の「おはようございます」の声。
「ああ、おはよう」と挨拶を返しながらデスクに着く。
仕事はまさに思考する作業だ。
必要なことを知識経験と照らし合わせて行動を導き出していく。
それをひたすら繰り返す。
人間がもっとも本能から離れている瞬間だ。
この本能を捨てる時間が給料を生んでいき、そうすることで生きる本能を満たしていく。
本能を捨てなければ本能を満たせない。
そんなパラドックスがもどかしくて歯がゆい。
そんなもどかしくて歯がゆいなかに生きがいを見出す。
仕事が終わると再び電車に揺られて家路につく。
企業戦士という社会的生物の仮面を脱ぎ捨てて安らぎや楽しみという素の心と向き合う時間だ。
どの瞬間も自分は自分のはずだが、本能と思考が入れ替わっている瞬間がある。
しかもそれは本能によるのか思考によるのか、自分ではわからない。
すべては自然の摂理に則り、よどみなく流れている。
ただ人間の思考だけが世の中を、自然を、存在を疑っている。
万事が対をなしてバランスを保っているとすれば、自然の摂理に相対するものが人間の思考なのではないか。
流れていく時間に対抗するように昔の瞬間を心に記憶している。
パターン化されない行動に理由をつけるように様々な感情がある。
我々の存在とはつまりパラドックスなのだ。
自然の流れという矛盾なき世界で矛盾を生んで生きている。
我々の摂理では矛盾のある状態が自然であり、矛盾していない。
そんな思考を明日の自分にリレーしていく。
本能と思考と矛盾を抱えながら、今日もまた私は眠りという自然の摂理に流されていった。
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