善きサマリア人(じん)
前回は『良い知らせ』https://note.com/takahiro1891/n/nc6dd6ff39818
と題して信頼しついていく素晴らしさを書かせて頂きました。ルカによる福音書 10章27節に出てきます『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』そのとおりに行動した『汚れた者』であった『彼』は清くされました。今日の箇所は《最も重要な掟》としてマタイによる福音書22:34-40 マルコによる福音書 12:28-34にも登場しているこの御言葉の後半部になります。
ここに出てくる『彼』は律法の専門家です。福音書に律法学者やパリサイ人が出てきたら何かやらかす!って思っても良いくらいにちょこちょことイエス様の邪魔をしてくる人たちですね。
隣人を自分のように愛しなさい
本文に入る前にサマリア人という人々がどの様な人なのかを書かせていただきます。
その昔 北イスラエル王国がアッシリアに捕囚となった後、アッシリアからの入植者との間に生まれた混血の子孫からなる民族でしす。
旧約聖書のユダヤの神を信仰しながら異民族の血と異教の風習も受けていたと思われていたために神の選民と自負するユダヤ人はサマリア人を忌み嫌い、交際しなかったばかりかその地方を避けて旅行をしていたとさえ言われています。
善きサマリア人のたとえ
イエス様が律法の専門家に対して「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」とお答えになったあと、
彼等は自分達を弁明するがごとく更にイエスに問います。
ここには被害に遭われたユダヤ人と思われるひと、
その大怪我おったユダヤ人を見かけると道の向こう側を通り立ち去った祭司、
祭司と同じように向こう側を行ったレビ人、
補足として祭司とレビ人の違いを載せます
そして近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したサマリア人。
この4名が出てきます。
デナリオン銀貨1枚がその日働いた給金と言われています。かなりな大金ですね。
この例え話が終わるとイエスは律法の専門家に問います。
「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」
律法の専門家は答えます。
「その人を助けた人です。」
サマリア人のことですが、ここでも律法学者は蔑みを辞めていないのか『その人』と言っています。そしてイエスは「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われます。
『愛』についての譬え話
この質問を投げかけた律法の専門家も、人が神に喜ばれ、受け入れられるために必要なことは「愛」だということは知っていました。つまり「神を愛し」、「隣人を愛する」ことです。
イエスはその答えを評価した上で、それが言葉だけのことではなくて、具体的な事柄であることを教えられたのだと思います。
祭司もレビ人もユダヤ人のエリートであり特別な存在でした。人々の罪の贖いのために奉仕する聖職者で、汚れを嫌っていました。
触れると汚れを身に受けることになり、本来の役目を果たせなくなる。そのような思いから道の向こう側を行ったのかもしれません。
いまで言えば政治家や会社の社長、警察官などが登庁やかえり、出勤やかえりに見かけたが倒れている人を介抱すれば仕事に支障をきたしてしまうので敢えて向うの道を行った。
このような形でしょうか。
サマリア人には、そのような縛りはなかったとは思いますが、中々簡単に出来ることではありません。
時間的、金銭的に犠牲を払って、そしてその動機は「気の毒に思う」というあわれみの心です。
譬え話にでてくる彼らの行動の違いから、
「愛」とは、自分の都合に目をむけることではなく、他人の痛みに共感して、その必要に犠牲を払って応えていくこと。
だと言えます。
何故イエスはサマリア人を善き隣人として登場させたのでしょうか?
ユダヤ人の聖職者と、異邦人に近いとされたサマリア人を登場させることで、「愛」に身分や国境は関係ないことを伝えたかったのではないか。そのように感じます。
この律法の専門家がこの後どのように行動したのか聖書に記述はありません。しかし忌み嫌うサマリア人を高く挙げられた譬え話に、大きな衝撃を受けたことであることは想像できます。
最後に
イエスはこのたとえ話で、サマリア人の姿から本当の「愛」について示されたのです。
立場や生まれや職業や貧富、肌の色、目の色、国籍、性別などなどの違いで、助けを必要としている人が自分の「隣人」であるかないかを自分勝手に規定してはならないことも教えておられるような気がします。
そして、それは同時に差別を良くされていない。そのことを、教えてくださっています。
小さなことでもできることから行っていきたいですね。
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