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学校名や学習指導要領の記述に番号を割り振る 〜「教育データの標準化」〜

「教育データ利活用」がもつ学習観・成長観の問題については、先日の投稿で書いた。

今回は、その前提として進められている「教育データの標準化」を取り上げておく。

データの連携をしやすくするための「教育データの標準化」が、文部科学省によって行われている。個別識別が可能になる番号を、学校に割り振ったり(「学校コード」)、学習指導要領の記述に割り振ったり(「学習指導要領コード」)というものだ。いずれもこの1年半ほどの間に導入されている。

「教育データの標準化」というだけで全面的にそれを肯定するのでも否定するのでもなく、どんなデータが何のために標準化されるかをきちんと見定める必要があると、私は考えている。例えば、学校に個別識別が可能な番号を振るのと、学習指導要領の内容に番号を振るのとでは、持つ意味が違うはずだ。

参考
学校コード
学習指導要領コード 解説
学習指導要領コード 一覧

学校コード」の導入まで、学校を特定できる識別番号が存在しなかった。だから、転入・転出時の処理が煩雑になったり、間違いが起こりやすくなったりしていたという。これが、「学校コード」の導入で解消できたり、関連する統計も取りやすくなったりする。
こうした点での標準化は大事だし必要なことだと思う(むしろ、なんで今までなかったんだ…というくらいに)。学校名というのは、もともと、名称が指し示すモノの境界が明確(どこまで東小でどこから西小かはっきりしない、なんてことはない)だし、在籍や所属のあるなしもはっきり区別がつくもの(二値的)だ。そのため、標準化と相性がよい。これまで学校名を記入していたけれど、同じ学校名があるなどのため混乱が起こりかねなかった場合にこのコードを活用するというのは、合理的だと思われる。

一方、学習すべき内容にコードを割り振る「学校指導要領コード」は、同じように捉えられるものだろうか。
そもそも、子どもに学んでもらいたい内容に対する切り分け方は恣意的なもので、学習指導要領の区分の仕方が絶対ではないし、ある内容がその学習指導要領の記述にあてはまるかどうかというのも必ずしも明確ではない。だから、情報の性質として、標準化と相性がよいわけではない。
もちろん、例えば教科書会社にとっては、教科書作成時に検定との兼ね合いで学習指導要領の内容の網羅が必要なので、「学校指導要領コード」の存在によって作業がスムーズになる部分はあるだろう。また、教師が複数社の教科書の比較検討を行いたい場合に、コードが付されていることによって便利になる面もあるだろう。
けれども、そうした「計画としてのカリキュラム」だけでなく、子どもたちが実際に学んだもの、つまり、「学ばれたものとしてのカリキュラム」を視野に入れようとすると、このコードが先行することにはいろいろと弊害が出てくる
学習指導要領のどこと対応するかが明確ではない学びがないがしろにされる危険性、そのコードが振られたものしかその学習内容と結びつくものとみなされなくなる危険性、そもそも子どもの学びをこの学習指導要領の枠組みで捉えることがもつ弊害などだ。もちろん、これらはコードを割り振らなくても生じ得ることではあるが、標準化されたコードの存在によってそれが拡大する恐れがある。
また、そもそも日本の学習指導要領における学習内容の規定の仕方は諸外国の場合と比べて細かいのだが、こうしたコード化が前提になってしまうと、それを見直して大綱化していくという発想が消え去り、もっぱら、より詳細により厳密に、ということばかりに人々の意識が向くことも起こりかねない。

標準化は、工業製品のパーツの規格化にせよパソコンのOSにせよ、たしかに利便性をもたらし得るものだ。
その意義は私も否定しない。
けれども、それを教育分野で取り入れるに際しては、どんな教育データをどんな形で標準化して何に使おうとしているのかを吟味すること、「『学校コード』と『学習指導要領コード』を同じように捉えてよいの?」みたいな問いを持っておくことは必要だ。

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