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教職大学院での実践研究のテーマ設定をいかに行うか

教職大学院における研究指導にまつわる話。

学部の教育実習(高校・物理)のときに、指導教員が、一言一句正確さを期し完成度を上げた原稿を準備して授業に臨むようなタイプの先生だった。一方的にしゃべる、まったくの講義形式の授業だったけれど、自分はその講義の分かりやすさに感動したし、有意義だと感じて、自分もその先生のように授業がしたいと思った。
が、生徒に聞いてみると、「あの先生の授業を面白いと思って聞いてるのなんて、クラスに1、2人ですよ」。
一方、生徒らに大人気だったのは、実験をたくさん行う先生。
このことに自分はショックを受けた。

…という学部時代の体験をもとに、あるM1の学生は、教職大学院での課題研究として、「講義型の授業」と「実験型の授業」の両方を自ら行い、その効果を比較するという実践研究の計画を立てた。

このように、自身の鮮烈な体験&問題意識をもとに研究を進めていこうとするのは、たしかに大事。研究の原動力になるし、今後の試行錯誤のうえでの根っこにもなる。
ただし、この体験から、「講義型の授業」と「実験型の授業」を対比する実践研究へと直結させるのは拙速ではないか?というのが、昨日の教職大学院のグループゼミで出た話。

まず、授業は「講義型」と「実験型」で単純に二分できるものではない。実験はないけれど、教科書や参考資料をもとにグループで知恵を出し合って勉強していく、みたいなのもある。さまざまな形態や教師のかかわり方の授業が考えられる。

また、授業形態の対比だけでなく、この体験からは、さまざまな研究上の問いを引き出すことができるはず。例えば、

  • 「講義型」や「実験型」(さらには他のタイプも)で授業を行っている教師は、どのようないきさつでそうしたスタイルにいたったのか。自身のスタイルに関して、どのように捉えているのか。

  • ある学校で「講義型」(あるいは「実験型」ほか)で授業を行っている教師は、常にそのスタイルなのか。環境が変われば別のスタイルに変わることもあるのか。

  • 教師(および教育実習生)側の目線と生徒の受け止め方とのズレはどのようにして(&なぜ)生じているのか。他のタイプ、他の教科の授業でもこうしたズレは生じているのか。

  • 校内に複数のタイプの教師がいることの意義はあるのか。例えば、全員「講義型」とか全員「実験型」の場合よりも、それらが混ざり合っているほうが、生徒らの認識や意欲の点で違いがあったりするのか。

といったものだ。

教職大学院の「課題研究」では、「実践的な課題」との結びつきが求められるわけだが、そうなると、えてして院生らは(学卒・現職問わず)、何かしらの手立てを含んだ授業を考えて実践して「検証する」という、安直な図式にのっとった研究を考えがち。研究テーマを考える際にはたしかに「焦点化」が必要だけれども、「どうやるか」をいきなり考える、性急な絞り込みをしてしまうのだ(まあ、これの逆で、具体的にどんな作業をするかのイメージがないまま壮大かつ漠然とした話ばかりして進まない、というパターンもあるのだけれど)。

せっかく、自身の原動力とも根っこともなる鮮烈な体験と問題意識があるわけだから、それを小さくまとめようとするのではなく、どんな問い、どんなアプローチで研究ができそうか(どんな問い、どんなアプローチなら有意義な研究になりそうか)、粘り強く模索すること。また、そのために、さまざまな研究の具体例や、その問題を捉えるうえでの土台になりそうな各種の知見に触れること。
研究を始める学生らにとって大事な点だ。

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