見出し画像

おいしいラーメンをつくりたいならまずは自分がおいしいラーメンを食べるところから ~実践研究論文の読み合わせ~

先日の記事では、教職大学院の演習(担当教員が複数入ったグループゼミ)で、「ツッコミどころ」がある実践研究論文の読み合わせを行い、それをある種の「踏み台」にして実践研究のあり方について院生らと考えた話を書いた。
もっとも、こうした実践研究論文の読み合わせを私は教職大学院でここ10年くらいは毎学期続けてきているが、「ツッコミどころ」があるものをわざわざ選ぶのは例外的で(今回は、ゼミメンバーの関心との関係で選択)、基本的には、院生らが実践研究(本学教職大学院では「課題研究」に相当)を進めていくうえで、なんらかのモデルになりそうなものを選択している。

多くの場合、学期ごとに2回読み合わせの回を設けて、計4本取りあげている。選定の基準はおおよそこんなところだ。

  • 実践者によって書かれた実践研究論文

  • 査読付き学会誌に掲載された(=一定の水準に達しているとみなされている)もの

  • (4本セットのなかで)できるだけ多様な研究アプローチが含まれるように

  • 教科やテーマなどの点でゼミメンバーらの問題関心に重なりそうなもの

ただし、これはあくまでもおおよその話で、実際には、大学教員がアクションリサーチ的に行ったものや、学会誌以外(大学紀要など)に掲載されたものを入れることもある。
例えば、昨年度秋学期の場合だと、次の4本の組み合わせだった。

森保尚美(2020)「舞踊の身体活動を通した音楽鑑賞に関する質的研究 ―「拍」概念の多様性に着目して―」『日本教科教育学会誌』43巻2号、pp.11-24

中尾泰斗、原田大樹(2021)「図画工作科における巻子本形態の教具を用いた鑑賞教育方法の検討 ―《鳥獣戯画》鑑賞の場合―」『日本教科教育学会誌』44巻2号、pp.1-13

明尾香澄(2021)「話し合いにおける「意味の共有」に関する一考察 ―絵本を用いた小学校2年生の話し合いを対象として―」『日本教科教育学会誌』44巻2号、pp.39-50

山根悠平、雲財寛、稲田結美、角屋重樹(2021)「小学校理科授業における不適切な行為に関する児童の実態 ―「振り子の運動」の実験場面を事例として―」『理科教育学研究』62巻2号、pp.513-525

研究手法として、発話記録の分析を行うもの(明尾2021、山根ら2021)から、ワークシートの記述をM-GTA(修正版グラウンデッド・セオリー)で分析するもの(森保2020)まで、いろいろ。また、アプローチとしても、手立てを講じて実践を行って成果を述べて…という、よくあるタイプの実践研究の図式をとるもの(中田&原田2021)から、理科の実験での子どもたちの逸脱行為(きちんと記録を取らなかったりごまかしたり)に目を向ける、尖ったタイプのもの(山根ら2021)まで。

こうした実践研究論文の読み合わせを私が大事にして行ってきたのは、こうした取り組みが、教職大学院ではしばしばおろそかにされてきたのでは、という問題意識があるからだ。

院生によくたとえとして出すのだが、おいしいラーメンをつくりたいと願うならば、まず自分がおいしいラーメンを食べなきゃ始まらない。味だっていろいろなタイプのものを食べたほうがよい。同じように、よい実践研究を行って論文にまとめたいのならば、まず自分がよい実践研究論文を読まなければならない。ゴールとしてどのようなものがあり得るかのイメージなしに、よき成果物をまとめることは不可能だ。

研究者養成の大学院の場合は、これは当然のこととされていて、研究論文の読み合わせをすることがカリキュラムのなかに組み込まれているように思う。けれども、教職大学院の場合は、「課題研究」などの形で実践研究をまとめることが課されているにもかかわらず、先例の読み合わせをすることがあまりに軽視されてきたのではないか。そもそも良質の実践研究論文が少ないのではといった問題や、教職大学院での指導教員側で良質の実践研究論文を書いた経験がある人が稀少といった問題もあるのだろうけれど。

読み合わせをすることで、院生らに見えてくるものはいろいろとある。
森保(2020)の場合は、音楽の「拍」のような、学習内容として自明視されているものを問い直すことの意義であったり、明尾(2021)の場合は、音声データの文字起こしを丹念に読み込むことの大切さであったり。
メンバーに学卒院生・現職院生の両方がいて、校種や教科も多様なので、音楽科の院生からの補足、小学校籍の現職院生からの実情紹介などにより、論文のさまざまな側面が照らし出されるのがありがたい。

もちろん、批判的に読む部分も出てくる。
山根ら(2021)では、子どものこうしたふるまいを「不適切な行為」と捉えてよいのだろうか、むしろ、子どもなりに考えて行っている結果として解釈できるんじゃないかといった話が出た。中田&原田(2021)のときには、「この実践で起きたことって、『原寸大複製』を用いたから生じたことなの? むしろ、高畑と手塚の文章の比べ読みとかワークシートとかが作用してるんじゃないの?」、「『原寸大複製』が良きものとされてしまってるけれど、別の可能性もあるんじゃないの? 巨大複製を使うとか。『原寸大複製』から出発してしまっているあまり、そうした可能性が見えなくなってるんじゃないの?」といった話が出て、その違和感の根源が、「上述のように、「原寸大複製」を用いることで本作品の鑑賞は見方の変化が生じた」(p.4)という一文にあることが見えてきたりもした(そこからさらに、「○○の手立てを用いることで、○○をもたらすことができた」という図式の便利さと安直さについての話にもなった)。
まあ、むしろ、こうした疑問のほうが出やすい(アラを探すほうが簡単だから)。けれども、前回の「踏み台」の話とも重なるけれど、そんなふうに他人の研究に批判的な目を向けられるようになったら、今度はそれが自分の研究に対しても働くようになってゆくゆくは研究の水準が引き上げられるだろう、と期待している。

もっとも、こうした実践論文読み合わせをめぐっては、論文の読めなさ、研究プロセスへのイメージの持ちにくさなどの難しさにも直面してきた。また、そのために行ってきた取り組みもある。そのあたりの話は、また日をあらためて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?