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「写真と文学」 - 世界を視るメディア

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2017年初夏からインプレス社刊行のデジタルカメラマガジンにて連載していた12回分の記事をまとめたマガジンに、その後似たようなテーマで書いた文章を追加してます。
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#小説

写真と文学 最終回 「世界の断絶と写真という小さな窓」

写真と文学 最終回 「世界の断絶と写真という小さな窓」

大学での最初の授業のことをいまだによく覚えている。広い構内の南東にあった教室は年月を経た建造物特有のカビと木の懐かしい匂いで満たされていて、小さな窓から斜めに入る光が舞い上がる埃を輝かしく照らしていた。それは新しいデジタルカメラで撮影された、とても古い写真を見ているような光景だった。目の前のすべてはクリアに存在しているのに、その光景はどうしようもなく遠く懐かしいという不思議なアンビバレント。その教

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写真と文学 第十一回 「パラレルワールドと認識の拡張」

写真と文学 第十一回 「パラレルワールドと認識の拡張」

 1995年、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という目を引くタイトルの映画が公開された。もともとはテレビのオムニバスドラマの一編だったが、あまりにも出来が良かったために映画として翌年公開されたという逸話が残っている。

監督は映画「Love Letter」でその名を日本中に知らしめた若き岩井俊二だった。この2本の映像作品をきっかけとして岩井俊二監督が頭角を現したというのは、映画ファン

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写真と文学 第十回 「実像と鏡像の狭間に揺れる自己」

写真と文学 第十回 「実像と鏡像の狭間に揺れる自己」

 朝目覚める。あなたはまず何をするだろう。目覚めたばかりの脳は全身をうまくコントロールできず、刷り込まれた慣習に従って、例えばベッドサイドの眼鏡を手に取るかもしれない。そうして1日が始まる。だが、あなたはまだ目覚めていない。眠る前に残してきた自身とのつながりを失っている。本格的に目覚めるのは数分後のことだ。しばらくリビングをうろつきながら、今日やることを思い出す。そうしておもむろに身支度を始める。

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写真と文学 第八回 「不在の中心が生み出す物語」

写真と文学 第八回 「不在の中心が生み出す物語」

 本屋で『桐島、部活やめるってよ』というタイトルを見た瞬間、思わず手に取った。あまりにも斬新なタイトルの作品が、どんな文章で始まるのかを確認しないではいられなかったのだ。1ページ目を開いたとき、タイトルに引かれた自分の直感が、予想よりはるかに鋭い形で具現化しているのに驚愕した。「え、ガチで?」という冒頭の1行。震えが来たとはこのことだった。それに続く言葉のすべてが、新しい時代の声と抑揚と響きを伴っ

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写真と文学 第七回 「真実と事実のパッチワーク」

写真と文学 第七回 「真実と事実のパッチワーク」

 前回、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』を題材に、「真実」とは結局何を指すのかという話を展開した。『姑獲鳥の夏』を引き合いに出したのは、2つの理由がある。1つは「全知全能の探偵による断罪」という神聖不可侵な探偵小説のプロットそのものを転覆してその後の多くの探偵小説の流れを変えてしまったこと。真実を人間がうまく把握できない以上、「断罪」など一体誰ができるのか、京極夏彦以後の探偵たちは、本質的な人間の限界を意

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写真と文学 第六回 「存在したことのない真実」

写真と文学 第六回 「存在したことのない真実」

 真実を写すと書いて「写真」。一方、英語では「photograph」と書かれるこの言葉は、ギリシャ語のphos(光)とgraphein(描くこと)の合成語であり、その原義に近づけて訳すならば「光で描く画」となる。「真実を写し出すもの」としての写真と「光で描かれた画」としての写真。どちらが正しいという不毛な論争を展開したいわけではないが、人間は基本的に「言葉」によって精神も身体も構成される存在である

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写真と文学 第五回 「断片が紡ぎ出す物語」

写真と文学 第五回 「断片が紡ぎ出す物語」

 10年ほど前に公開されたイスラエル映画「戦場でワルツを」の中で、かつて実際にあった心理学実験について語られるシーンがある。こんな実験だ。

被験者に子どもの頃の写真を10枚持ってきてもらう。そして後日、その写真のエピソードを語ってもらう。被験者はそれぞれのエピソードを懐かしそうに語る。ところが、10枚のうち最後の1枚が合成写真に差し替えられている。被験者が行ったことも見たこともないはずの場所、例

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写真と文学 第四回「多重露光、あるいは時の積層としての写真」

写真と文学 第四回「多重露光、あるいは時の積層としての写真」

世界は多重露光で出来ているのではないか。いや、それは言い過ぎだとしても、世界を見ている我々の視線、あるいはその記憶は、多重露光的に構成されているのではないか。そんなことを思ったのは、マーク・トウェインの自伝的旅行記である『ミシシッピの生活』の中のある一節を、大学生のときに読んで以来のことだ。本の中でトウェインは、かつて自らが蒸気船の「水先案内人」として船頭したミシシッピ川を、20数年後に小説家とし

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