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たまには写真について reprise

写真の仲間の一人で、多分みんな誰もが憧れるしんやさんが、今日はなんか2本すごい文章を書いていて、それに呼応する形で。

この記事の最後で、しんやさんがこんなふうに言ってて、ドキッとした。

フィクションをノンフィクションへ、アンリアルをリアルへ。みんなで、切磋琢磨していこう。

しんやさんは天才的な直観を持ってる人で、この前関西大学の写真実習の授業でしんやさんの紹介をした時に「この人の写真、すごいやろ?でも何がすごいかわからんやろ?絶対真似したらあかんで、真似したら悲惨な写真ができあがるから。でもこの人の写真を穴が空くほどよく見ておいて」というようなことを学生に伝えた。それは多分、上の文章に表れてて、多分相矛盾している要素を一枚の写真に収めることができるのがしんやさんなんだと思う。

今日は写真に関して、すごい人達が面白いことをいう日だったみたいで、さっき濱田英明さんがツイッターでこんな事を書いてた。

このレベルで「木漏れ日」のことを考えている人は、多分写真家では濱田さんだけのような気がしていて、それはまた、濱田さんのインスタを見てもわかるように、常に絶妙に繊細な距離感が被写体との間に構成されていて、その感覚は「木漏れ日」という光の繊細な性質へと意識を向けることができる濱田さんだからなんだろうなという気がする。

お二人は僕からみたら天上人みたいな写真家なんだけど、すごく性質が違う。まるで台風の目のような、暴力的な風の中心が静寂で満たされているようなしんやさんと、「木漏れ日」を乱さないようにひっそり眺める濱田さん。でも共通しているのはふたりともこよなく写真を愛していて、それが彼らの写真に独特のリアリティを与えている気がする。この世界自体を受け取る意志というかなんというか。

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一方僕はというと、僕は常に「非存在」の方向へと興味が向いてしまうんですね。元々の出自が文学で、フィクションで、記号の世界を研究してきて、小さいころから「エルマーとりゅう」「おしいれのぼうけん」「指輪物語」に惹かれてしまった僕は、この世界に無い何物かを常に求めているような気がします。

存在しないものを、なんとか写そうという試みをこの6年ほどしてきた気がします。多分それは「真実を写す」と書かれた「写真」という記号への、文学的反抗のつもりだったのかもしれない。

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でも、この数年、濱田さんやしんやさんたちの撮る写真を折に触れて見てきて、他にもたくさんの写真を通じた仲間たちのいろんな種類の写真を見て、それらに強く惹かれていくうちに、自分のやっていることってなんなんだろうと問い返すことが増えてきました。

そもそも小説という「フィクション」もまた、フィクション(作り物)といいながらもその作者自身の生きている現実が、形を変えて虚構世界の中に「真実」として刻印されている。それが多分作品を強く分厚くしていくんです。その「フィクションの持つ強度」みたいなものを、自分の写真の中にも描いていきたいなというのが、最近思っていることです。

もちろんやることは基本的には変わらないんです。僕はやはりフィクションに惹かれる部分があるから、いわゆる「真実を写す」ということは多分しない。でも「作り物」の歪んだピースを集めてみたら、案外それは、僕の知っている「現実」か「真実」を、何か違う形である程度示すような、そういうものを求めて行けたらなと思うんですよね。

道は長そうだけど、当たり前のことをやってても面白くないので、また挑戦していきたい。二人の写真家に触発された、良い週末になりました。

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