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共感煽動時代の「バートルビー」

僕は大学時代文学部にいたのですが、後にアメリカ文学専攻になる前は哲学科に所属していました。アメリカ文学をやるようになって最初に衝撃を受けたのは、ゼミの1つ目のリーディング課題でハーマン・メルヴィルの短編小説「バートルビー」を読んだ時です。この短編はかなり意味不明な小説の一つで、書記のバートルビーが、ある日を境に全ての書記の仕事を放棄。その時に必ずこういうのですね。

"I would prefer not to"

かなり変わった英語です。訳すなら、「しないほうが好ましいのですが」くらいでしょうか。日本語としてもかなり変です。というか、変に訳すべき文章。そしてこう言いながら全てを拒絶するバートルビーは、最後は生きることさえ「しないほうが好ましい」こととして、何も言わず死んでいきます。この小説に何か意味があるのか、哲学科から来ていきなりこれを読まされた僕は、かなり悩んだものです。

その後しばらくして、バートルビーは、「他者」だったんだなと思い至りました。「他者」という存在そのものの隠喩。こんなふうに言い切っちゃうと小説を矮小化しすぎている感じがして嫌なんですが、まあ今回はちょっと妥協します。

他者というのは、つまり他者です。自分以外の全ての人間。そして僕らはその「他者」に囲まれて生きているんですが、どういうわけか、お互いに理解出来ているような幻想を抱きながら毎日生きている。でも、バートルビーが突きつけるのは、あるいはバートルビーという形をとって著者が問おうとしているのは、「他者」とは、根源的に「他なる者」だということです。つまり理解も共感も不可能な存在。そして原理的に言えば、我々は「自分」という牢獄に閉じ込められているので、他者は常にバートルビーとして出てくるはずなんです。生まれてから死ぬまで、自分以外の誰のことも理解出来ないのが、多分、本当のところなんでしょう。

今思えば、こういう理解に至るのには一つの源泉があったんだなと思います。それは哲学科の一年生のときにたまたま取った修辞学の授業で学んだ内容で、高校までの僕の幼い世界認識を粉々に砕いて、それ以後の基本的なモノの見方を作ってくれたように思います。

それは一言で書くと「この世界は言語で出来ていて、そして互いの言語は相互に完全な理解に至ることはない」という考え方です。この考え方は、「サピア=ウォーフの仮説」のことを指していたんですが、その講義を経て以後、僕の考えは180度変わって行きました。そして僕がその後哲学を離れて文学を志向したのもなんとなく理解できます。文学とは多分、「表現できないことを表現しようとして悪戦苦闘する芸術」のことだからです。それはつまり、言語活動そのものなんですよね。

これ以後の僕は、自分の言うことが人に伝わるという幻想を持たずに生きるようになりました。

誤解してほしくないのは、これは中二病的な絶望ではなくて、単なる現実理解なんです。その理解から発生するのは、「自分の考えは伝わらない」からこそ、「伝わるように努力をする」のだし、伝わったと思えた時は嬉しく思うのだけど、でもそれは「たまたま」でしかないと常に思って、また次の努力を開始するようになります。

一方、この考え方は今こそ重要なんじゃないかなと思ってます。現在の「共感ポルノ」や「大正義あおり運転」に溢れた世界では、むしろ、「人は自分とは違う」という基本的な事実を改めて意識しないと、この先どんどんしんどくなっていくんじゃないかなと思ってます。

そしてここで、初めてアメリカ文学を読んだ時の話に戻ります。我々は心の中にバートルビーを一人住まわせておくような、そういうことをしておかないといけないんじゃないか、最近はよくそういうことを思うんです。「それはいいね!」が魔界転生し「あれは悪いね!」が暴走して我々を煽り立てる時、「そう思わないでいるほうが好ましいのですが」と静かに拒絶する自分を保つという意味において。

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