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誰もが簡単に誰かと繋がれる時代に「独り」でいること(あるいは魂の獣道について)

写真を始めた頃のことです。僕はもともとあまり人とコミュニケーションを取るのが得意な方の人間ではないので、撮影地にはいつも独りで行って、独りで撮って、独りで帰ってきました。まだまだ写真とSNSはそれほど緊密な関係を築いておらず、Instagramがなかった時代の話です。

あの頃は大変でした。撮影地を見つけるにしても、情報なんてほとんど出回っていません。なんとなく地図で目星をつけた場所に行ってがっくりしたり、たまたま走っていた道すがら素晴らしい風景を見つけたり、今では考えられないくらいに行き当たりばったりの撮影。成果なんて出たもんじゃない。一年に一枚か二枚、「あ、これいいな」と思える写真が撮れれば御の字。駄作にさえなりえない、困ったjpgたちの山が沢山残りました。

でもね、楽しかったんですよね。誰に見せるでもなく、自分がきれいだなあと思った光景をカメラに収めて、それだけで完結していました。すべてが自分だけでとどまり、自分の内側に小さな篝火を継ぎたすような、そんなささやかな行為。写真が僕にとってすごく秘史的で、親密だったときの話です。

今や隔世の感。何もかもが変わりました。ちょうどNikonのD800を買った頃だから2013年あたりですね。世界は一気にSNSシフトを始めた気がします。すべてのデジタルデータがSNSと名付けられた「ビッグデータ」の中に集約される時代。写真もまた、巨大な渦に巻き込まれる運命にありました。全てはつながり、全ては流通し、一瞬で拡散して消費される世界の到来。

おそらく我々は気づかないうちに、2013年あたりで分岐した世界線の一つに入ったんだろうと思うんです。何かが決定的に変わった線に。それが良いか悪いかは別にして、それ以後我々はあらゆる局面において「独りになるのが難しい時代」に生きることになりました。写真も例外ではないです。好むと好まざるとに関係なく、SNSにつながった我々の日々には、他者が溢れています。iPhoneをカバンにいれても、AppleWatchには様々なSNSからの通知が表示されます。

「ヘイSiri、ほんの少しだけ静かにしててくれないか。」
「残念ながらそれはできません。」

データが集約されるということは、人であれ物であれ情報であれ、効率化が進むということを意味します。人は自分の能力と傾向に従って集団を作り、物はAmazonに集まり、情報はSNSに集まる。僕らはそれを参照しながら、各集団の「最良」を選別して、自分自身の人生を、仕事を、趣味を、人間関係を「高効率化」する。SNS時代の人間の生き方でしょう。それは良いものでも悪いものでもなく、そういうものなんです。

それはすごく便利だけど、時々ふと怖くなります。自分が常に他者の目にさらされているような気がして。いつのまにか、「他者の目」を通して生きているような気がして。

そういう時に大事なのは、うまく「独り」になるタイミングを見つけるということだと思うんです。もちろん、今の時代にSNSから外れて生きることはもはやほとんど無理です。SNSは空気みたいなもので、好きとか嫌いとかいうレベルを終えました。Twitterで地震情報が速報され、Facebookで災害安否が確認される場合に、それを使わないでいるというのはなかなか難しい。遠くに行く時に、いくら乗り物酔いがひどいといっても車か電車を選ばなくてはいけないように、場合によってTwitterやInstagramやFacebookや、あるいはまだ出てきていない次のSNSを選んで、そのたびごとに出てくる新たな係数と格闘しながら、自分の人生の軌跡を描く努力をしなくてはいけない。その牢獄から我々は逃げることができない、そういう世界線を我々は選んでしまいました。

でも、遠くに行く時、たまには自転車を選ぶこともできるわけです。あるいは、少し気力が満ちているときは、何十キロも歩いてみることもできる。与えられている諸条件を時に自ら無視する余白は、まだこの世界には与えられている。そして実際、そのような道のほうが、実は車道や電車道よりも広く、長く、深い。そのような場所にこそ、だいたい「次」が潜んでいます。

そう、よく「ブルーオーシャン」って言われる場所です。この話のポイントは、青い海で独りで泳ぐと、いつも見ている風景とは全然違うものが見えるよってことなんです。

そのような「いつもと違う風景」を、僕はかつてたくさん撮りました。ネットにもつながらないフォトフレームに、2012年ころまでに撮影した愛すべき困った写真たちのデータを入れて、それが部屋の隅で延々とスライドショーで回り続けています。時々それがふと目に入る。もう6年も経っているのに、行った道や周りの匂いを思い出せる。そしてそういう写真から得たインスピレーションが、次の写真です。

これが多分、僕をあの時救ったような気がします。2016年の末から2017年の頭にかけて、どこを見ても「自分の目で見ている風景」がないような気になって、カメラが触れなかった時期。もうシャッターを押せないんではないかと思っていた時期。そんな時、上の写真を撮りました。後日談ですが、その後この写真は大きな賞に繋がり、いろんな機会をもたらせてくれる一枚になります。この経験は、自分自身の先入観が見えなくしている道、新しい「道」はどこに向けても踏み分けていけるのだという、ごくごく当たり前の話を思い出させてくれます。でもその道は、「みんな」の好みが最前面に可視化される世界では、もっとも見えにくくなっている場所の一つ。僕はそれを魂の獣道と呼んでいます

集約されるデータに囲まれる中で、「自分」として生きるために、その道に篝火を熾します。一度捧げられた人間性は取り返せないにせよ、火の中にその名残を辿れるほどには、暖かさは残っているはずです。

獣道の主人は人間ではなくケモノである以上、時にそこを歩くことは自らを滅ぼす危険もあります。でもだからこそ他の人が歩いていない場所でもあるんですね。「獣になれない」のはガッキーだけではなく我々だってそうですが、時々は月に向かって独りで吠える必要もあるんじゃないか、そんなことを思うのです。

というようなことを、ジャック・ロンドンの『To Build a Fire』を読みながら思いました。ものすごく好きな短編の一つです。ぜひ読んでみてください。冬の夜に読むのにピッタリの短編です。


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