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言葉の中に刻まれる、その時代のDNA

文学研究者時代(って、まるで終わったかのような書き方ですが)、何人かの他学科の研究者、特に最先端の学問をやってる知人友人からたまに言われたのは「文学研究って何の研究をしてるの?」という質問でした。

僕ら研究者は基本的に互いの研究領域に対してリスペクトを持っています。それぞれの専門領域は極めて狭い専門性によって成り立っているので、相互に理解出来ないのが基本的な認識です。なので上の質問も、何か侮蔑的な意味を込めたものではないのは重々わかっているのですが、それでもなお彼らの質問は、我々文学研究者にとっては痛いところを突いてくる質問です。というのは、上の質問には、「文学研究する意味ってある?」という含意を読み取ることが可能だからです、そんな意図は、質問をした側には全くないにせよ。どうしてそんな風に読み取れるかというと、それは他ならぬ文学研究者である自分自身が、研究の途上において何度も何度も自問した問だからなんです。というよりも、もっと徹底した形で。すなわち、

「文学研究なんて、ただの自己満足じゃないの?感想文と何が違うの?」

という疑問に、自ら何度も立ち返ることになりました。他の研究領域、特に実践的な研究領域と比べて、やっていることの意義が見えづらい領域であるのは確かです。

でも、確かに文学研究というのは必要なんです。それを今日はたまたま、友人にある古い小説の説明をしているときに感じたので、そのことを今日は書き留めておきたいなと。

ところで、この後ちょっと「文学史」っぽいことを書くので、そのあたり不要な人は、下の目次の2から読み始めてください。そこから読んでも分かるように書いてるつもりです。よろしくお願いしまーす。

1.ハックルベリー・フィンの冒険とは

マーク・トウェインの書いた小説に、『ハックルベリー・フィンの冒険』(以下『ハック』と略)という小説があります。日本ではこちらよりも『トム・ソーヤーの冒険』で知られた作家ですが、アメリカ文学史的にはトウェインは『ハック』を書いた作家として、大金字塔として刻まれています。今でも「アメリカ文学史上の聖典と言えば?」とアメリカ文学研究者に聞いたら、おそらく10人中4人くらいは『ハック』を挙げるんじゃないかという気がします。『白鯨』『緋文字』『響きと怒り』あたりと並んで、現代のアメリカ文学の基盤を築いた小説と言えます。

なのに、意外と読みやすい。てか、意外と面白い。今上に上げた『白鯨』や『緋文字』や『響きと怒り』は、文学研究の本職でもなかなか手を焼く小説です。読みこなす事自体が難しい。いわゆる「お文学」的な感じ、クソ難しくて何を言ってるかわからんような部分がかなりある小説です(僕は『白鯨』で修論を書いて死にかけました)。

それに比べると、『ハック』はある程度のストーリーがある。難しい哲学的な話も出てこない。結構血湧き肉躍るようなエピソードもある。あんまりややこしいこと考えずに読めるんですね。いわば当時の「大衆文学」ですね。で、そういうポップな感じの「大衆文学」ってのがあんまり評価されないのが文学史の定石なんですが、『ハック』は文体がすごかった。当時小難しい表現ばかり並んでいたアメリカ文学の中に、貧乏白人の英語や南部訛りの表現、黒人の英語なんかをぶっこんで、その生活をいきいきと描き出している。アメリカ文学が『ハック』以後、「みずからの声」を見つける方向に動き出し、独自の強い文体を築き上げていき、例えばヘミングウェイの『我らの時代』だったり、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に行き着くようになるのは、紛れもなく、トウェインが『ハック』において、清新な言語を文学の中に「再発明」したからなんですね。さすがに雄弁家の国ですよ。(ちなみにこうした流れこそが、政治分野ではアメリカ大統領を「ショーマン」化し、テクノロジーという本来無味乾燥な分野にAppleという「雄弁なIT」を生み出す流れを作り出したという風にも言えます)

で、ですね。このあたりは大学の「米文学史」で習うことなんですが、『ハック』って欠点もわりと多い小説なんです。特によく言われるのは、後半3分の1ほど、「フェルプスファーム・エピソード」と言われる部分が、それまでのクオリティからガタッと落ちると評されるんです。上に挙げた小説家で、みなさんもおそらく『老人と海』で知っているヘミングウェイは、「アメリカ文学史の最高の小説は『ハック』だけど、それは残り3分の1のフェルプスファームの退屈な話をカットしたらの話」的なことを言ってるんです。えらいひどい言いようですわ、今ならTwitter燃えますな。

でも、そう言いたくなるのもわかります。詳細書くとちょっと長くなりそうなので簡単に言うと、それまで溌剌と描き出されていた主人公の貧乏白人の倅ハックと逃亡黒人奴隷であるジムとの川の上の生活が、陸に上がった瞬間、白人中産階級のトム・ソーヤに主題を全部回収されてしまうんです(『ハック』は『トム・ソーヤ』の続編なので、最初と最後にトムが出てくるんです)。せっかく「川の上」で芽生えたハックとジムの「人種や制度を超えた友情」が、トムの持つ強力な「共同体のルール」を見越した欺瞞に満ちた「遊び」の中に回収されてしまうんですね。まあ、こういう風に言っちゃうと、確かに批判されても仕方がない。川の上では、何かちょっと賢者のような雰囲気さえ漂わせるに至った逃亡黒人奴隷のジムが、陸に戻った瞬間、白人の権威を無意識に身にまとうトムの存在のために、もとの「物言わぬ迷信深い愚かな黒人奴隷」の仮面を、意識的にか無意識的にか被らされてしまう。こうなると、「あの川の上での二人の目覚めはなんだったの?」って話になるんですね。結局中産階級の白人偉いって話なのかよ、と。

という感じで、欠点も多いわけです。欠点も多いんですが、でも大事なのはここなんですけどね、それだからこそ読む意味があるんですよね。

2.文学にはストーリーは必要ない、のか

今、「欠点が多いからこそ読む意味がある」って書いたんですが、これは「古い文学ってストーリーあんまりないから苦手」って言う人がいると思うんですが、それと表裏一体の問題なんですよね。文学にはストーリーが無いんでしょうか。あるいは必要ないんでしょうか。ざっくり言うと、いわゆる文学と言われるものには、読む人をエンターテインする「起承転結のドラマ」「すじがき」「プロット」のようなものは、二の次になります。というか作家も研究者も、あまりそのあたりは重視してない気がします。なぜか。そういうエンターテインのためのプロットは、結局読み手にページをめくらせるための、いわば「誘い水」に過ぎないからです。文字を読むというのはそもそもからしてしんどい作業なので、何かエンターテインする要素でもない限り、人はなかなか読んでくれない。だから、工夫を凝らして作家は面白い話を作るんですね。でも、それはほんとはあまり必要ないんです。なぜか。文学っていうのは、ある人間が、その時代の「狭間」に迷い込んだ挙げ句に、その「狭間」がなんなのかを「物語」という形でなんとか表出しようと試みたものだからです。よく「一言でいうと」とまとめられちゃってるんですが、まとめたら意味がない。千ページの小説は、千ページ分だけの「迷い」が必要だったんですよね。プロットなんてせいぜい1ページで書けるのに。

そしてだからこそ、「欠点が多いからこそ読む意味がある」ってなるんです。曲がりなりにも作家ですから、自分の小説の欠点なんてみんな自分で分かっている。でも、それでも、その欠点含みのエピソードを書かないでは、その物語は完結しないという強烈な動機づけが作家を駆り立てる。その欠点の存在こそが、それを作家に書かせるよう駆り立てた「時代の空気」「時代の狭間」です。スッキリと書き得ない、面白さが削れても残さなくてはならない、歯がゆい部分。割り切れない部分。それを作家は自分の物語の中に刻印する。それが大事だからこそ、後に文学と呼ばれる偉大な小説は、時代の何かの部分を切り取って、作品の中にDNAの様に刻印している。我々研究者は、それを「読む」んです。そのDNAを。

3.古い文学を読むとは、タイムマシーンに乗るようなもの

そう、だから、文学を読むというのは、タイムマシーンに乗るようなものです。その時代の空気を誰よりも深く胸に吸い込み、誰よりも激しく怒り、誰よりも強く愛し、誰よりも全身で格闘した、あるひとりの人間が残した文字の中には、その時代の何かが刻み込まれている。もう21世紀の今となっては、その感触さえわからない「その時代の空気」を、どの媒体よりも濃厚に読み取ることが出来る。かつて「黒人奴隷」がどれほど白人を恐れていたのか。その恐れの空気の中で、なぜ白人の少年ハックは「黒人逃亡奴隷」と一緒に生活ができたのか。そしてその様な小説を、まだまだ黒人奴隷が解放されていない州も多かった当時のアメリカでマーク・トウェインは書き得たのか。そのような今ではもう決してわからないその時代の空気を、一冊の小説の中に見出すことが出来る。現代に生きる僕らは、ある一冊の小説を通じて、17世紀、18世紀、19世紀、20世紀に生きた人間の、本当に等身大の思考の断片に至ることが出来る。本当のタイムマシーンが発明されるまで、僕らが「過去の空気」を本当に体験できるのは、こうした古い文書の「声」だけなんです。そしてタイムマシーンは「未来」へもいけます。

たとえば上に書いた『ハック』の話のテーマだった「黒人奴隷」を、「AIの女の子」とでも読み替えてみます。そして主人公の男の子が、そのAIの女の子と毎日過ごすうちに、「結婚」したいと考えるような物語を作ったとします。それを大真面目に書いたとして、一部の人は「気持ち悪い」と感じるかもしれない。なんでAIと結婚やねん、と。でもおそらく、100年後の未来、AIはおそらく人類よりも賢くなるでしょう。もしかしたら、ニューラルネットワークは、人間の「意識」と同等の何かを生み出すかもしれない。その時、「AIと結婚する」というのは、むしろもう当然のことになるのかもしれない。そう、これは例えばブレードランナーと同じ主題を含むことになります。あるいはターミネーターは愛ではなく「友情」ですが、同じですね。僕らはこうやって、「物語」を経由することで、いわば未来に対して備えてもいるんです。今の目線で言えば、今物語を作るということは、未来に送る一種の「瓶詰めのメッセージ」です。未来という「時間の大海原」に対して、いつか誰かが読み解いてくれることを期待して送り出すメッセージ。そして未来の時点から僕らを見た時、「あ、100年前には、AIと結婚とかって、気持ち悪い話だったのね」と言うような、今の我々の生きる空気感の一端が伝わる。

4.文学研究とは

つまり、文学研究とは、この「精神のタイムマシーン」の経路を、途切れることなく後世へとつなぐためにやっているんですね。何か今、役に立つことを見いだせる研究分野ではない。でも、いつか未来のどこかで、現在の我々でも見えにくくなってきた「過去」の物語の価値がどこにあるのかをある程度整理して渡すことは、もしかしたら未来のどこかの誰かを救うかもしれない。というのは、いつでもそうなんですが、人類を最も残酷に損害してきたのは、いつでも「狭隘な物語」に人が踊らされた時です。そのような狭い物語が流通しそうになったときこそ、おそらくは「文学研究」の意味が問われることになるんです。

それはつまり、「今」、僕らの時代を相対化出来る強みを、読書体験を通じて得ることが出来るということです。自分の時代に特有に見える問題点は、過去において別の文脈ですでに何度も繰り返し問われてきた問題であることがわかります。そのような相対的な視点というものが欠落したとき、人は簡単に自分自身を聖域化するんです。

まあでも、そんな小難しいことを考えなくても、単純に良いんですよ。19世紀の空気感に浸れるって。21世紀に僕らは生きているんですが、小説を通じてのみ、僕らは違う世紀に行ける。それっていいでしょ。

てことで、よければ皆さん、文学も読んでやってくださいな。『ハック』は面白いですよ。ほんとに。

リンク先は、アメリカ文学翻訳の最強の名手である柴田元幸先生が、ついに『ハック』を二年前に翻訳された時の分です。やすいのもいっぱいあるけど、できたらこれ読んでみてください。

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