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映画『ジョーカー』の居心地の悪さ

これを書いているのは13日の0時頃。まだ風の音はかなり聞こえますが、台風19号がようやく関西から抜けつつある時間帯です。今頃、おそらく東海や関東の皆さんは不安な夜を過ごされているんだろうなと思いながらこれを書いてます。親戚や友達の多くが関東圏にいるので、あまり他人事ではなく、妙に目が冴えるので、この前見た映画Jokerについて、ちょっと備忘録的に書いておこうかなと。


あ、以下、ある程度ネタバレしてるので、お気をつけください。


さて、話は映画です。まず最初に、この映画は傑作です。それは内容だけではなくて、ホアキン・フェニックスのキレキレの演技や、写真家でも唸るようなコントラストの強い映像美、そして映画全体を支配している音楽の雰囲気などなど、どれをとっても超一級品。その意味で、この映画はバットマンのスピンオフという枠を超え出て、何度も語り継がれる映画になるだろうと思います。

ただ、その傑作性は、おそらくは2019年という今の時点でリアルタイムに見るからこそ伝わるような部分がある気がします。見終わったとき、この映画の持っている核心の部分の「現代性」を、例えば30年前の人や30年後の人たちに、自分が感じる共振も含めて伝えうる自信がありません。香港でデモが吹き荒れ、アメリカでは銃乱射が日々繰り広げられ、日本では教員のいじめがセンセーショナルに報道され、世界が刻一刻と「暴力の連鎖」で疲弊している2019年のこの時代の空気を吸っていない人に、この映画を伝えられるのだろうか、そんな気がするんです。僕ら自身がゴッサムシティに生きているかのような今の時代だからこそ、この映画に震えることができるんじゃないか、そんな気がするわけです。

そしてもう一つ、この映画、見終わった後に思ったんですが、どうにも居心地が悪い。ものすごい傑作で、すでにもう一回みたいけど、何か自分の内側に残っているこのわだかまりを直視して整理しないと、もう一回行ってもさらに居心地が悪くなるだけではないのか、そんな感じがしたんですね。

今日は台風。まだ風が吹き荒れる音を聴きながら、その正体を考えてみようと思うんです。

おそらくこの居心地の悪さは、この映画が照射するのが、我々自身の立ち位置の都合の良さだからだと思うんです。というのも、この映画のストーリーは、あからさまに主人公ジョーカーへの感情移入を誘発するのですが、そのジョーカーは無差別な暴力を肯定し実行するテロリストであり、そして彼の存在を否定しようとすると、今度はその暴力を生み出す側、つまり「弱者を無意識に搾取する側」の人間に自分がいることを見つめるしか無いという、そういう構造に映画がなっているからです。

そんなこと考えてたら映画なんて見られない、多分その通りです。僕らは「そんなこと」は基本考えないようにしているし、普通の映画は僕らにそういうことを考えさせないような、忖度に近い「配慮」を準備してくれている。

でもこの映画は悲劇でもあり喜劇でもあるという、チャップリン由来の強烈な批評性によって、映画自体の価値観が根底から揺るがされている。そのゆらぎは、もちろん映画がジョーカーという男の主観的な目線によって、妄想込みで映像化されていることにも由来しています。人が死んで悲しむのか、笑うのかさえ、一義的に捉えることができない。

そんな映画を、安全な場所で1800円を払って見ているのが僕らです。心優しい狂人がテロリストになるのを、ポップコーンを食べながら、ゆったりとした椅子に座って「鑑賞」している。この映画をちゃんと封切り直後に映画館で見られる人というのは、多分テロとは縁もゆかりもない生活を送っている。裕福とは言わずとも、基本的には安全な日々をある程度保証されて生きている。だから、ジョーカーの暴力を肯定できるはずがないんです。その一方、映画は強烈にシンパシーを誘発する様にジョーカーの物語を描き、我々は彼の優しさに、孤独に、狂気に、徐々に肩入れをし、最後にはカタルシスを感じてしまう。そんな都合のいいことが可能なのは、僕らがこの社会に満ちている矛盾のすべてをカッコに入れて、普段は見えないふりをして、自分はそうした「悪」に一切加担していないと思っているからです。まさに僕らは、アーシュラ・K・ル・グウィンの描き出すオメラスの住人というわけです。

オメラスの住人について知らない人のために少し注釈を。オメラスというのは、理想郷のことです。その国には貧困も病もない、完全な理想郷なんです。でもその理想郷が保たれるために、一人の知的障害の子どもが地下牢に閉じ込められている。その彼を助け出したら、理想郷が破壊されるので、誰一人としてその子を助けようとしない。汚物が垂れ流されるまま、鎖に繋がれた少年が地下で犠牲になっている。全員、その子の犠牲でこの理想郷が成り立っていることを理解している。

というのが、「オメラスを去る人々」で描かれる理想郷オメラスです。これはもちろん、ただの寓話です。でもすべての寓話がそうであるように、現実が象徴化されている。そしてこのオメラスの「象徴度」は、もはやほとんど寓意でも象徴でもなく、そのままのように見えます。僕ら先進国と言われる国に住んでいる人間の、その「先進」と「富」は、偏って蓄積されている。富は本来循環するものですから、偏った蓄積は、偏った欠乏を生み出します。もちろんその欠乏を背負わされるのは貧困国の人々。僕らが映画終わった後に捨てるポップコーンと同じくらい、命が軽い国々。僕らはそういう国があることを知ってはいる。でも毎日楽しく笑う。カッコに入れて、見えないふりをして。

ジョーカーがあぶり出すのは、僕らのこの姿のような気がするんです。ジョーカーとは、オメラスの地下室を自ら破った少年です。そして自らの存在を「見ないふり」していたすべての人々に、暴力という手段で突きつけるピエロ。その瞬間、世界はバフチンのいうカーニバル空間に変容します。バフチンのカーニバルとは、王が道化に殺される空間のことです。すべての権力が逆転するカーニバル化した空間こそ、あの祝祭的破壊と暴力に満ちたゴッサムシティというわけです。

ジョーカーに「俺の人生は悲劇だ、いや喜劇だ」とつぶやかせるのは、もちろんチャップリンからの引用なわけですが、その言葉が向けられているのは僕ら自身。僕らはこの映画を見て、「ジョーカーにはこんな悲しいバックストーリーがあったんだ・・・」と涙目で共感したり、難しい顔をして「大傑作だ」とうそぶきますが、結局手元にはポップコーンがあって、映画が終わったら半分残ったそれをゴミ箱に捨て、流行りのSUVに乗って映画館を後にするわけです。ジョーカーが象徴する「今の世界を暴力で否定する人々」、こういうふうに言っていいならば「無敵の人」たちからしたら、僕らは多分彼らの物語を理解する資格なんて一つもない。そこには本来、相互に理解不可能な溝が、ばっくりと口を開けて広がっている。安全な場所から映画みてわかった気分になっていること自体が、滑稽な状況なんですね。まさにチャップリンのいう「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」です。笑われているのは、この場合僕らなんですが。

この特異な物語構造を通じて、映画は観客の誰もがその物語の「内部」に入ってくることを拒否しているように思います。そのくせ、映画はその一部がまるで「僕らの話」でもあるように描き出す。生まれた悪に対して共感を覚える構造を作っている。その二律背反の物語構造ゆえに、どうにも居心地が悪い。どっぷり入っていると思っていた物語は、最後の段階でまったく「僕らの物語なんかではない」ということを、突きつける。

なんと苦々しいのでしょうか。カタルシスを感じるあのテレビ局のクライマックスのシーン、カタルシスを感じれば感じるほど、自分の都合の良さが浮かび上がってくる。僕らは多分、ジョーカーに委託しているんです。安全な位置から、「破壊願望」のようなものを委託している。あるいは暴力と死を委託している。ジョーカーがあの真っ赤なスーツを来て、おなじみのあの化粧をまといながら、ロバート・デ・ニーロに向けて銃を打った瞬間、残酷な快哉を上げている。多分心の一番奥で。

それは古代のグラディエーターを見世物にしていたローマの人々の欲望のようだ。暴力と死は見たい。でも死ぬのは「俺以外の誰かであるべきだ」という人々の、朗らかな古代ローマの精神性。21世紀の社会を生きる時に最も必要な資質の一つ。

ところで、スーザン・ソンタグが、写真に関してこんな事を言っています。

「写真による世界の認識の限界は、それが良心を刺激しながらも、結局は倫理的あるいは政治的認識にはなりえないということである」
スーザン・ソンタグ『写真論』

ソンタグは写真かも含めた「観察者」の持っている、極めて都合の良い立ち位置を、「世界に対する常習的な覗き見関係」というふうに言ってます。僕らはジョーカーという映画を語ろうとするとき、この「覗き見」的な立ち位置より内側には入れないんだということを改めて感じるんです。

もう一つ、ソンタグ繋がりで、こんな文章もありました。極めて示唆的な文章です。

恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。
スーザン・ソンタグ『良心の領界』

ジョーカーの「笑い」は、すべて「感情を押し殺すため」の笑いだったなと、そんなことも思い出しました。

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