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土星に輪っかは確かにあった

あるきっかけで突然天体望遠鏡を買うことになった。4万円ほどの入門機だったのだが、届いた望遠鏡は想像していた1.5倍ほど大きく、びっくりするほど物々しい「おもちゃ」だった。6歳の時、親にねだってついに買ってもらえなかった夢を40歳を超えて果たすことが出来た。

夜が来た。夕方頃から分厚く張り出していた雲がさっと晴れて、21時を過ぎた頃から南の空に星がまたたき始めた。土星は南から南西に向かって、22時頃に水平線に消えていくコースをたどること星空アプリが教えてくれた。アンタレスや火星と一緒に落ちていくのでとても探しやすそうだ。すぐに見つけることが出来た。しかし目では簡単に見つけられた土星なのに、初めての天体望遠鏡ではなかなか小さな土星を捉えることが出来ない。その間にもどんどん土星は水平線に向かって落ちていく。写真で月を撮ったことがある人ならご存知の通り、星や惑星は驚くほど速いスピードで空を動いているのだ。

今日はダメかもしれないなと思ったその矢先、適当に動かして覗いた接眼レンズのど真ん中に光点が映っていた。心臓が一瞬胸の内側で跳ねる。間違いなく土星。ぼやけているその光点にピントを合わせていく。被写体を見つけてしまえば、ピント合わせはカメラでお得意の手続きだ。ピントの山を見極めて、すっと回転させる。目の前に、米粒3つ分くらいの光点が現れる。目を細めなくても分かる。土星だ。輪っかがある。土星に輪っかは確かにあった。それを確認した瞬間、胸が詰まった。ほとんど泣き出したいくらいのその感情をうまく言葉に表すことが出来ない。6歳の時に見ていても、多分その意味も価値もわからなかっただろう。あの時両親が僕に天体望遠鏡を買わなかったのは、なるほど、良い教育だった。

なぜ僕はあんなにも感動したんだろう。その感動の質は、それまでの人生で味わったことの無いもので、それを一言で説明出来る言葉を僕は持たない。だから考えるしかない。適切な単語が無いから、人は文章を書く。

一つのヒントはガガーリンのあの有名な言葉かもしれない。有人宇宙飛行を人類史上最初に達成したガガーリンは、宇宙から地球を見た時、「地球はやはり青かった」と言ったとされている。正確には「地球は、青いヴェールをまとった花嫁のようだ」。どちらの言葉でも、キーポイントは「青」。ガガーリンの心を撃ちぬいたのは「青」だったのだ。ただ、ガガーリンが宇宙に行く頃には地球が青い星であることは一般常識だったのに、ガガーリンはなぜ改めてその「青」に感動したのだろう。初めてあの有名な言葉を聞いた時、僕にはその理由があまり良くわからなかった。でも、多分あのガガーリンの感動した「青」は、僕にとっての土星の輪っかと同じだったんじゃないかと今気づいた。

地球が青いことを知らない人はこの世界には多分あまりいない。でも、地球が青いことを「本当に知っている人」も多分あまりいない。それを「本当に知る」には、それを自分の目で見て、その青さを自ら確認しなくては、おそらくは「本当に知った」ことにはならないからだ。

地球の「青」のことだけではない。僕らは自分で見てもいないことを知った気でいる。例えば地球は「丸い」と誰もが知っている。でも本当に丸いのか、あの例のギリシャ人のように井戸の底に入って太陽の光の入る角度から「実際に」地球の半径を計算した人はおそらくいないだろう。そのような我々の知識のありようは、古代インドの世界観とそれほど大きな違いはないように思える。地球の下にはゾウがいて、その下には亀がいると考えていた宇宙観と。

僕等は世界の権威が勝手に「こうである」と決定している破綻のない世界モデルを信じているだけなのだ。時代が進んで宗教が科学にすり替わっても、基本構造は変わらない。その知の有り様は、結局のところ極めて不安定で、そしてその知は実際には我々の内側に深いつながりを持たないものだ。根無し草の知識。不安な、もしかしたら心の内側で本当は信じていない知識。その集積された「思い込み」の上で、僕らは自分の人生を生きている。蜃気楼のような不安定な世界、人生。

ガガーリンが宇宙に上がって、初めて眼下に広がるあの青い地球を見た時、彼は多分、それまで世界の誰もが本当の意味では知らなかった「みんなが知ってる真実」にたどり着いた。「地球は青い」という真実。みんなが知っていて、みんなが知らなかった真実を彼は自分のモノにしたんだと思う。その感動こそが彼のあの言葉の意味合いだったように思うのだ。

そしてそれは、僕にとって土星の輪っかだった。小さい小さい、子ども用のおもちゃのような、小さな輪っかを持った米粒のような惑星。輪っかがあるというみんなが知っている知識を、僕は初めて、自分の目で(アイピース越しだけど)見ることが出来たのだった。小さなアイピースの先に写った土星を見た日以後、僕はその事実を絶対の真実として心の内側に持つことが出来る。その喜びが、僕の胸をつまらせる。こんなにも当たり前の事実なのに、僕はその事実に初めて出会ったのだ。多分世界はほんとはそうだ。知らないことだらけだ。その寄る辺無さ、その美しさ。

ああ、そうかと思う。写真と同じだ。目の前に広がる、確かにあったものを記憶にとどめ、記録に留める行為。そうやって僕らは、自分がかつて見た何かを、一つ一つ自分の生の中につなぎとめる。ほんとうは知らないコトやモノばかりの世界に、灯火を紡ぐようにして、自分の「知っていること」を増やしていく。多分土星の輪っかは、僕にとってはそのシンボルだったのだろう。

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