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写真と文学 第一回「そこに風の歌は聴こえるだろうか?」

【承前】
 次回からはこの前置きはなしでいきなり本文に入りますが、noteで初のマガジンを作ります。12回完結です。内容は、2017年から2018年まで、一年間、「デジタルカメラマガジン」で連載した「写真と文学」という記事の全文公開です。デジタルカメラマガジン編集部及び出版元インプレスさんの理解を得て、この12回分の連載記事を公開することが可能になりました。
 この文章、僕にとっては多分、これからもずっと「一番大事な仕事の一つだった」と言い続けるものになりそうです。というのは、自分がずっと歩んできた「文学」という領域と、新たに歩み始めた「写真」という領域を、なんとか自分の人生の内側でつなげることが出来ないかと思い始めたときの、その最初の実現がこれだったからです。担当編集者である牧浦さんにこの連載のアイデアを伝えたとき、2つ返事で「やりましょう」と乗ってくださったことを、僕はこれまで仕事をやってきた中で一番うれしい瞬間として覚えております。
 そしてこの連載は、この1月に発売した『最高の一枚を写し出す写真術』の導線にもなりました。写真において「言葉」が果たす役割をより重視して、そこに「物語」を見出すという行程は、実はこの連載から始まっていたのです。

 ということで、新刊を買ってくださった皆さまにとっては、いわばよりニッチな「エピソード0」として楽しんで頂けたらなと思っています。次回からはこの前置きはありませんが、そういう連載だと思って楽しんでいただけると嬉しいです。週一回、木曜日のお昼に投稿予定です。転載にあたっては多少の修正を入れていますが、大幅な改稿は無いです。変なところがあっても、適宜「読んで」くださると嬉しいです。

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写真と文学 : 世界を視るメディア
第1回「そこに風の歌は聴こえるだろうか?」


 村上春樹の処女作は『風の歌を聴け』というタイトルだ。小説のタイトルなのに「聴け」とは、また面白いタイトルだなと思ったことを覚えている。高校1年、16歳になるかならないかの頃だ。カメラ雑誌にいきなり小説のことを書き始めているこの文章は、「写真」と「文学」という2つの、遠い遠い(ように見える)芸術を橋渡ししようという試みで続けられる予定になっている。書いている私について少しだけ話しておくと、東京カメラ部というグループの10選という肩書を持つ1人で、2017年1月からプロのフォトグラファーとして働いている。同時にもう1つの仕事として、同志社大学で講師を務めてもいる。元々の専門は文学の研究者で、いつからか写真も仕事になったけれど、いつの日かこの2つをつなげたいと思っていた「写真」と「文学」この2つはまるで違うジャンルのように見えて、実はある共通点を持っている。それが、文頭で書いたことに連なっていく。皆さんは、「風の歌」を聴いたことがあるだろうか。よく考えると奇妙なこのフレーズについて、まず少し書きつつ、一見まったく共通点の無さそうな「写真」と「文学」の共通点を探っていきたい。

 村上春樹の小説を支配するトーンは、最新作の『騎士団長殺し』に至るまで基本的に一貫したもので、何かが失われたり傷つけられたり損なわれたりする予感とその残酷な実現、そしてそれがわずかに回復される“かもしれない”というささやかな希望に向かって主人公たちがあがいていくという形を取る。典型的な「英雄の放浪」型のプロット(貴種流離譚)を、現代的な意匠と設定で描いた小説群だ。それがなぜここまで人を惹きつけ、世界を惹きつけ、いつでもノーベル文学賞の筆頭候補の1人に挙げられるのか。答えは、その独特の言語表現(特にメタファーの使い方)にある。『風の歌を聴け』でも、序章の基本のトーンは、先に書いたとおり典型的な「喪失」の感覚が色濃い。でも、その序章の最後の部分で、主人公はわずかな「救済の可能性」を信じようとする。その表現は私のこれまでの人生の中で、最も美しい表現の1つとして心に刻まれている

「それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。」
―村上春樹『風の歌を聴け』講談社、1982年、P.8

ここで問題なのは「象は平原に還り」という部分だ。象が平原に還るとはどういうことなのだろう。そしてなぜ象が平原に還ったら、主人公は「美しい言葉で世界を語り始める」ことができるのか。さらに、それがなぜ「救済された自分を発見する」ことにつながるのか。これらの言葉が喚起するイメージは極めて曖昧で、論理的なつながりを欠いている。もっと言うなら、この小説にこれ以降、象は出てこない。一匹だって、象は、出てこないのだ。意味深げに言及された象に、伏線的な意味合いは何一つ与えられていない。最後に一匹のインド象が駅の前に妻と娘たちを迎えに行くような感動的なエンディングも用意されていない。

いわば言葉として、比喩として存在しているだけの象。にもかかわらず、私がこれを初めて読んだとき、頭のなかにはどこか遠い平原に向かって還っていく美しい象の群れが浮かんだ。それは逆光に包まれた、広い草原とわずかな水飲み場があるようなサバンナの光景で、そんなものを私は実際に見たこともないのに、その風景を眼前に「見た」ような気がしたのだ。15歳、まだ人生は始まってもおらず、その後の人生で何を得て何を失うのか、何1つ知らない私にさえ、その言葉はダイレクトに到達した。これが村上春樹の文章の力だ。以来、およそ25年の月日が経ち、私は未だにこの文章の美しさを、あの時のままの感動を伴って素晴らしいと思う。


 さて、そろそろ写真の話へと進まなければいけない。「風の歌」は誰にも聴けないのだ。風は歌わないし、何よりも、文字には音程がない。でも、「象が平原に還る」情景を美しい文章で語ることで、その言葉は「象の帰還」の視覚的イメージを読者の心に生み出すことができる。時には足音さえ響かせるかもしれない。写真もまた、視覚イメージだけの芸術であり、音も臭いも触感も伝えられない。しかし、優れた写真が視覚イメージ以外の五感を刺激する力を持っていることを、皆さんは知っているだろう。視覚イメージに限定されるはずの写真なのに、その空間には轟音が響き渡るときもある。

 19世紀のアメリカの作家マーク・トウェインは、20世紀が始まる時点でアメリカ最初の「国民作家」となった。日本における、おそらくは夏目漱石の立ち位置、といえるかもしれない。トウェインの小説は『トム・ソーヤの冒険』という少年小説の形で皆さんも知っているかもしれないが、彼の本領は『ハックルベリイ・フィンの冒険』にある。

 この小説の概要は、ハックという浮浪児の少年が、ミシシッピ川を下りながら、黒人奴隷のジムと数々の冒険を乗り越えるというものだが、その最も素晴らしい部分は、ハックという少年が属している貧乏白人階級の「口語」によって物語が語られ、その少年の「視点」で世界が見られているという点なのだ。写真が常に構図に還っていくように、文学は常に「言葉」こそが最も大切であり、トウェインはハックという少年を通して、「新しい世界の語り方」を提示したのだ。それこそが彼がアメリカ最大の作家となった理由なのだが、その中で特に有名な一節を紹介したい。

「筏の上ではたいてい、薪割りをしているものだ。斧がきらっと光って打ち下ろされる―音は聞こえない。また斧が振り上げられる。そして、男の頭上にかかったとき、カーン!という音がする。水の上を渡ってくるのにそれだけ暇がかかるのである。」
―マーク・トウェイン「ハックルベリイ・フィンの冒険」松岡花子(訳)、新潮社、1959年、P.181

 斧に反射する光、そして、薪割りの音が水の上を走るように遅れて届く、清々しい朝の様子が伝わってくる。彼の文章がアメリカ文学の歴史を変えたのは、目で見て耳で聞き、鼻で嗅いで手で触ったものを、その感触のままに伝えようとしたからだ。読んだ人間は、自分がミシシッピ川にいて、その光と音が「見えて」「聞こえる」ような気持ちになる。

 文学と写真の共通点、そろそろ伝えられただろうか。2つのメディアは、名前のとおり、「メディア=媒介者」でしかない。その形式に縛られ、1つのことだけしかできない。文学は文字、写真は画。この2つの「メディア」は、向こう側に存在している「現実」を仲介して記録したり表現したりするものに過ぎない。そして必然的にその「媒介」のさなかで、現実との「ずれ」が発生する。その「ずれ」をなくそうと努力することも必要なのだが、あえて私は「ずれ」こそが可能性なのだと考えたいのだ何かを表現するときに生まれる「ずれ」があるからこそ、それを見たり、読んだりするたびに、人は匂いを感じたり、光を見たり、影を直感したり、風の歌を聴く。向こうにある「現実」という正解はひとまず脇に措いて、現実を我々が「仲介」して伝えるときに生まれる「ずれ」を増幅させて、世界はこんなにも多様に受容できることを示したい。だから私は文学に惹かれ続けるのだし、写真を撮り続けるのだろうと思っている。

(第一回 おわり)

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本原稿が掲載されたのはデジタルカメラマガジン2017年7月号でした。このとき、他にもいくつかとてもおもしろい連載が始まっていて、特に「にっぽんパラレル紀行」は今読んでも面白いです。Kindle Unlimitedでも読めると思うので、ぜひぜひご覧になってください。


記事を気に入っていただけたら、写真見ていただけると嬉しいです。 https://www.instagram.com/takahiro_bessho/?hl=ja