写真と文学 第六回 「存在したことのない真実」

 真実を写すと書いて「写真」。一方、英語では「photograph」と書かれるこの言葉は、ギリシャ語のphos(光)とgraphein(描くこと)の合成語であり、その原義に近づけて訳すならば「光で描く画」となる。「真実を写し出すもの」としての写真と「光で描かれた画」としての写真。どちらが正しいという不毛な論争を展開したいわけではないが、人間は基本的に「言葉」によって精神も身体も構成される存在である以上、言葉のもたらす範囲から何かを読み取ろうと心掛けること自体は不毛ではない。

 ちょうど私が高校を出るか出ないかのとき、日本の探偵小説の方向性を若干修正してしまう小説が登場した。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』という作品だ。もしミステリー小説の結末を知りたくないという読者がいたら注意をしてほしい。この先、軽くネタバレが待っている。

 小説は、ある名家の子女が、20カ月も赤子を身ごもっているという、異様な「謎」が告げられるところからスタートする。どう考えてもありそうにもないその謎に対して、このシリーズの名探偵役である中禅寺秋彦が、その後シリーズを通した決め文句にもなる一言を発する。

「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」
―京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社、1994年、P.16

 しびれるような名探偵のセリフがどのように物語として帰結するのかを楽しみに読み進めていくと、確かに、物語に不思議なことは1つもなかった。20カ月の妊娠は想像妊娠という結末を迎える。また、もう1つの謎「最初から事件現場にあった死体」が、なぜその場にいた誰にも見えなかったのかも明かされる。この小説では、ある人物が死んでいるらしいということがあやふやなままに物語が進むが、実は最初から死体は語り手である関口巽にも、もうひとりの探偵である榎木津礼二郎にも見えている。文字どおり、死体は部屋の隅に転がっていたのだ。しかし、死体はなぜか「見えない」。存在するはずの死体がなぜ見えないのか、京極夏彦という小説家の手腕により、登場人物はもちろん、読者の目からも死体は消されることになる。

 謎の詳細はぜひ小説を読んで確かめてほしいが、問題は人間の脳の極めてだまされやすいという性質にある。それを実感してもらうために1つ例を出してみたい。皆さんの中に、視界の中に1cm程度の小さな丸が2つ、中空に浮いているような人はいるだろうか。おそらくはいないだろう。でも、我々が、もし真実を余さずに知覚できる存在ならば、2つの丸は、本来視界に存在しなくてはならない。そう、「盲点」の存在だ。盲点というのは、読んで字のごとく、目に見えない点のことだ。目の中で視神経が集まって束になっている場所で、そこには光を感知するための視細胞が存在しない。つまり、その部分の「光の情報」は欠落している。だから、脳がその光の情報を正しく把握するならば、そこには情報のない丸が存在していないとおかしくなる(実はこの「丸」を実際に認識する方法は存在するので調べてみてほしい)。ただ、それが我々にとって見えないのは、脳が2つの目の情報をもとに欠落部を補っているからだ。つまり、我々は2つの視野の情報を合成して、まるで世界には欠落などないかのように、自身の脳によって作られる「画」にだまされているだけなのだ。中禅寺秋彦は、脳の性質をこのようにうそぶく。

「しかしはっきりしていることは、脳が〈税関〉の役割を果たしているということだ。目や耳などを通じて外から入って来た情報の凡てを、脳という税関は確実に検閲している。そして納得の行くものしか通さない。検閲に通ったものだけ意識の舞台に乗ることができる」
―京極夏彦『姑獲鳥の夏』講談社、1994年、P.28

 人間が視覚を通じて受け取った情報は、常に脳によって取捨される。その脳の「検閲」を通って、世界が構築される。その「脳の検閲後の世界」が我々人間が今目の前に見ている「現実」であり「真実」と呼ばれているものである。脳は盲点に情報がないことを許さないし、もし本当に見たくないものがそこに存在するならば、「死体」のような巨大な物体であっても、人間はそれを脳から排除して「ないもの」とできる。それが人間の能力ならぬ「脳力」とでもいえる性質だ。

 京極夏彦が描くこの世界観は、実は写真の世界にも当てはまる。「真実」を写しているはずの写真は、常にカメラの中核である「センサー」が取捨する情報によってできあがった画に過ぎないということだ。例えば、人間の目にとっても、カメラにとっても、普通の撮影方法では絶対にこの世界には存在し得ない画というものが確実に存在する。長秒露光による自動車の光跡などがそれに当たるだろう。

カメラのシャッターを10秒、20秒と開けることで、流れる光がセンサーに刻印される。カメラに慣れ親しんだ人には当たり前の表現だ。しかし、複数の光跡が、同時に複数の自動車が通ってできたものか、何度も自動車が通ってできたものか、写真からは分からない。カメラはただ「これを見た」と我々に結果を差し出す。真実を知っているのは、カメラの外にいる撮影者本人だけだ。そして撮影者本人が「真実」とやらを忘れてしまえば、そこに刻印された事実がどのようなものかを保証する一切は消え失せる。「真実」と「事実」を完璧に刻印していると思われている写真という芸術は、実際には、時間という軸を失うことでいくらでも物事を付け加えたり、消し去ったりできる。Photoshopを使わずとも、撮り方次第で昼間の渋谷の交差点から人を消すことさえ可能だ。カメラを触ったことのない人にそういう写真を見せると、「どうやって撮ったの!」と驚かれることがあるが、そう、名探偵が言うように、そこに「不思議なことなど何もない」のだ。

 でも同時に、それは根底においてはむしろ「不思議しかない」とも言い換えられる。我々は自分の脳に常にだまされ続け、そしてカメラもまた、それが写し出した世界について、どのような真実も告げない。あるのは人間の解釈と、そして思い込みだけなのかもしれない。「存在したことのない真実」を人間の脳もカメラも「ある」と証言する。でも一体全体「何が」存在したのだろう?

 この原稿を書いているとき、ちょうどTwitter上で「光が差す方向は、光の来る方向なのか、光が向かう方向なのか?」という疑問が話題を集めていた。洞窟の中で「光の差す方へ歩く」という表現をすれば、光に「向かって」歩き出す印象、つまり光源の方向をイメージするだろう。だが、映画『天空の城ラピュタ』で、最大の敵であるムスカが言う「飛行石の光が差している方向」は、ラピュタがある場所であり、それは光の向かっている先だった。結局どちらが正しいわけでもなさそうだ。

 また、物理学において光は「波」と「粒子」の両方の性質を持ったものとして説明される。そしてどちらかの性質を観測したとき、もう片方の性質を同時に観測できない、ということになっている。

 言葉においても物理学においても、まるで人の手をするりと抜けるように、光はその正体を容易には現さない。その光が結実して作り出すのが「写真」という芸術だ。そこに写し出されるものが「かりそめに描き出された画」なのか、「世界の真実の姿」なのかを答えることは、どうやら人の手には余るのかもしれない。

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「写真と文学」 - 世界を視るメディア

2017年初夏からインプレス社刊行のデジタルカメラマガジンにて連載していた12回分の記事をまとめたマガジンです。そのうち有料化するかもしれませんが、とりあえず今は無料で。