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風景写真を撮ることの一番の醍醐味とは何か(あるいは「未分化の物語の語り部」になること)

よく「プロの風景写真家って何やってるの?」と、親戚のおっちゃんおばちゃんたちから聞かれます。特に僕の場合、数年前まではただの大学の文学研究者だったので、いきなり「写真家」の顔をしてNHKの番組に出てきたり、本をだしたりしだしたわけで、親戚のおっちゃんおばちゃんたちからしたら、「趣味で撮ってたはずのカメラであいつは仕事をしているらしい、でも実際のところ何をしてるんや」ということで、法事とかで会うたびに聞かれるんですね。そのたびごとに「いや、まあ、色々、ゴニョゴニョ」と、説明しきらずにお茶を濁してたんです。なので、今日は「風景写真を仕事にすること」ってどういうことなのかを文章にしてみようかなと。ただ、それを語るには、まずは「そもそも風景写真を撮ること」自体が、一体どういう意味や意義を持っているのかという考察が必要じゃないかなと思ったんです。

そうした「意味」とか「意義」みたいなものをちょうど考える機会を、先日得ることが出来ました。この問に対する答えは比較的僕の中では明らかなので、まずはそれを明確に提示すると、「その場所の土地勘を得ること」だと思っています。土地勘という単語にはこの場合かなり広い意味合いを含ませていて、ほとんど「好意」に近いポジティブな感情です。いわば、「撮影した場所がなんとなく好きになる」というのが、風景写真撮影において、きれいな写真を撮ることと並んで、今とても大事なことなんじゃないかなって思ってます。これが結論。ここから話を書き起こしてみましょう。(で、最後まで書いたらめちゃくちゃ長くなりました。8125文字もあったので、以下はお時間あるときにでも。)

(*今回の記事で使う写真は、全て「三重県紀北町」で撮らせて頂いた写真になります。)

1.「土地勘」は心の距離の近さ

先日、「きほく燈籠祭」という三重県紀北町のお祭りに行ってきました。この花火は数年前、一つのツイートをきっかけに関西近郊の写真愛好家に知られるようになりました。

実はこのツイート、僕のツイッターのフォロワーが500人から一週間で2万人ほど増えた飛行機のツイートの二日後にアップしてるんです。何を出してもバズるようなありがたい(ちょっとだけ大変な)頃だったので、このツイートもかなり拡散して、その効果もあって一気にきほく燈籠祭の花火は有名になったようです。先日はデジタルカメラマガジンの夏の特集号の表紙にも選んでいただきました。

それ以降、ほぼ毎年ここの写真を撮ってるんです。初年度こそ、花火会場に入れずに迷った挙げ句に偶然たどり着いた場所で、地元の写真家の皆さんに場所を譲って頂いて撮れたのですが、二年目以降はしっかり事前準備をして撮影させていただいてました。

そんな過程で、いつも現地の誰かに助けていただくんです。二年目の撮影の際は、一年目の撮影をしたとき暗闇で助けてくれた写真家の方に、三年目は自治体の実行委員の方と喫茶店のマスターに、四年目は台風でいけなかったのですが、五年目の今年は三年目の撮影の際のマスターに連絡をしたら、本来閉まっているはずのお店をわざわざ開けて、駐車場も確保して迎え入れてくださいました。


さらに今年は、三重県議会の議員である東豊さんに助けていただくことになりました。そもそもは絶景プロデューサーの詩歩ちゃんを紀北にお連れするという流れからご紹介頂いたのですが、その際、僕が山に行くというのをお伝えしたら、地元の人が知っている一番最短ルートを教えてくださった上に、なんと出会って5分で、そこまでいくために必要な四輪の自動車を貸してくださるという、ちょっと普通では考えられない流れに。出会って5分の人間になかなか車は貸せませんよ、ほんと。

そんなこんなで紀北町の人たちにたくさん助けていただいたこの五年でした。この春には、花火には全く関係なく、紀北町の街を撮影させていただくという仕事にも恵まれ、どんどん僕は紀北という街全体に「土地勘」のようなものを獲得します。

グーグルマップをみなくても、道沿いに何があるのか大体思い出せます。美味しい海鮮丼のお店があることや、街には「α」の形をした橋があること。

漁船が湾に入ってくるときには湾を結ぶ道が上にあがって、それを知らせるアメイジング・グレイスがかかること。

その道のたもとでは、漁に上がった魚の日干しが作られていて、扇風機がその美味しそうな匂いを運んでくれること。

まるでそこにちょっとの間住んだかのような、色のついた記憶が、シャッターを切るたびに積み上がっていきます。それを人は、多分「土地勘」と呼びます。そしてそういう土地勘のある場所に対して、人は愛着を覚えるものなんですよねその土地勘に基づいた場所への愛着を持てるということが、風景写真を撮っていて一番素晴らしい成果であることに、ある時気づきました。

紀北だけではなく、熊本の天草や岩手の北上、沖縄の各地や、それからもちろん滋賀県の長浜市や高島市。写真家になる前にはほとんど知らなかった場所に、具体的な画を伴った記憶=「土地勘」を持てるというのは、素晴らしいことだと思うんです。それは、その場所へのとても緩やかな共感、あるいは連帯感のようなものを作るからです。物理的に遠い距離の場所に人はなかなか気持ちを寄せることができないものなんですが、「土地勘」がある場所のことは気にかけます。何か良いことが起こればなんとなく嬉しいし、災害が起こったら寄付をしようかなって思ったり。ニュースでその場所の単語を耳にすれば、ご飯を食べる箸をちょっと止めてそれを眺めたり。「土地勘」というのは、実はすごく僕らの心理的な距離を近くします

2.風景写真がもたらす問題もまた

一方、数年前から花火撮影も含めた風景撮影のマナー問題が頻発しています。絶景地にあつまる三脚ズラリの状態。ちょっとカメラの前に通行人が出ようもんなら、「どけ!」と罵声を飛ばすおじさんたち。絶景ギスギス2.0の世界。それはいわば風景写真撮影における修羅道のようなものだと思ってて、これが行き着く先は「撮影禁止」という流れです。

風景写真は一方では土地への愛着を生み出す可能性を持ちながら、もう一方では、そこに住んでいる人たちの生活へと土足で入り込み、ときに踏みつけ、そして憎まれ、蔑まれるような事態も生み出します。この春には、桜を撮るために無断で私有地の畑に入り込んだ写真家たちの姿がニュースで取り上げられました。また、このような事態は日本に限らず、世界的なものであることが、たまたま今日ニュースで知りました。

こういうことが起こり得るのも、風景写真なんだろうという気がします。なぜなら、やはり「美しい風景」を前にしたとき、人間は一瞬理性を失うくらいに魅了されてしまうからです。

もちろん、僕はこういう立ち位置にいて、さらにはこういう時代ですので、写真を撮る時には最近ではまず「ここは撮影してもいい場所なのか」と「ここは入ってもいい場所なのか」を確認する癖が、体の隅々まで染み付いています。でも、頭の中では「あそこにいけばいい写真が撮れるのにな」という想像はします。それは多分、すべての風景写真家が経験することの一つのはず。そしてそのうちの何人かが、実際にその妄想に突き動かされて、入っちゃダメな場所に入っていってしまう。一人がその行動を起こすと、「横断歩道みんなで渡れば怖くない」方式で、それまで周りで我慢していた人たちの自己規制も決壊して「じゃあ俺も」という流れができる。こうなるともう止められない。

そしてそのうちのひどい事例が、最終的にSNSで槍玉にあげられ、炎上を引き起こします。桜や紅葉、コスモスや彼岸花、藤やネモフィラ、そしてホタル。こうした風景写真の季節の主題的な被写体の有名地が規制され、時には撮影禁止になる。それはとても残念なことですが、一方もはやあまりにも頻繁に起こるために、驚きさえ感じない日常茶飯事のような出来事でもあります。

3.規制をすればいいのか

こういうとき「すべてを規制すればいい」という意見を耳にします。善意に任せているからこういうことになるんだと。それは確かにそうなんですね。ある程度の規制なりルールを守らせる強制力というのは、このご時世では仕方のないものなのかもしれません。

でも、その「強制力」が行き過ぎると、一枚の写真をもとにして作られた人の流れを、断ち切ることにもなりかねないわけです。先日僕は、機会があって滋賀県長浜市と高島市の市長お二人とトークイベントをさせていただいたんですが、人の動きを制限することに対してすごく慎重な姿勢を持っていらっしゃったのが印象的でした。

また最近は自治体の職員の皆さんと話すこともとても多いのですが、彼らの多くは、写真が作り出す人の流れと、それがもたらす経済的効果に大きな可能性を見出しています。つまり写真というのは、想像している以上にリアルな世界における人の動きに影響を与えているんですね。地方創生とか地方活性化と呼ばれる動きと、風景写真というのは、すごく相性が良い。

もちろん、我々写真家側というのは、基本的には「きれいな風景を撮りたい」という極めて単純な動機で動いているわけですが、「きれいな風景」は、写真家に限らず多くの人を動かすわけです。そして人間というのは、動くたびにお金が必要になる存在です。そのようなお金は、常ならば東京や大阪、京都といった大都市圏に集中的に落とされるものですが、その一部が風景写真を見て動いた人たちによって、地方にもたらされます。その写真が存在しなければ人が来なかったような場所へと、いくばくかのお金が落とされることになる。その額は、それほど小さいものでありません。

例えば次の写真によって、この三年で観光客が二倍以上に増えた場所があります。滋賀県の余呉湖ですね。このツイートがきっかけだったそうです。

先程のトークイベントの打ち合わせの際にデータを教えていただいたのですが、この写真が投稿されて以後、観光客が年間2万人から4万人になったというデータを、職員の方からお聞きしました。2万人増加した人たちが、例えば一人平均1000円を現地で使ったとします。それくらいなら、ご飯なりお茶なりで十分にあり得る控えめな数字です。それでも、2万人が1000円を使えば、その額は2000万円です。実際に平均がどれくらいかはわからないけど、おそらく数千万円のお金が一つのツイートを中心に動きました。その中核にあるのが「美しい場所を見たい」という人間の審美的な欲求なんです。そして写真はその欲求を駆動する強い力がある。でも、そこに来た人たちの中に、時々ルールを破る行動をしてしまう人が出てくるわけです。人間ですからそれは仕方がない。それを地元では受け入れられないからといって強烈に規制してしまうという形にすると、せっかく出来上がった人の流れがせき止められる可能性があるわけです。

そこで自治体レベルで最近よく議題にあがるのが、写真によって増加した新たな観光客を受け入れるルートや体制を早急に作るということです。僕の今の仕事は、写真自体を撮ることと同時に、その写真を使って何ができるのか、その写真が何を引き起こす可能性があるのか、その可能性はポジティブなものなのかネガティブなものなのか。写真一枚の持っている総合的な価値判断を行って、その場所の持つポテンシャルを再定義するような、そういう仕事にも関わるようになってきました。

そしてそのような仕事の時にすごく大事になってくる要素こそが、先にあげた「土地勘」なんですね。土地勘がないと、何がどういうふうに動くのか、まったく判断できないからです。ただ、このような仕事が目指しているのは、飽くまでも大きな枠作りであって、自治体だったり企業だったりが今全力でやろうとしていることです。(例えば「そうだ、京都行こう」が先般、早朝の写真や、京都北部の観光地をキャンペーンで押し出したのも、「観光地でも流石に早朝は人が少ない」とか、「北部の方はまだ余裕がある」というような、「土地勘」に基づいて作られた施策です。オーバーツーリズム対策の大きなレベルでの動きですが、これもある程度の「土地勘」がなければ思いつかない話です)

では、我々個人のレベル、特に一写真愛好家として一体何ができるのかということなんですが、それもまた「土地勘」が鍵なんじゃないかなと。つまり、ある場所へ写真を撮りに来た人々の持つ「土地勘に基づく場所への愛着」が集積されることで、ゆるやかでポジティブな情報の流通を作る素地になるんじゃないか、そんな希望を持っているんです。

4.場所への愛着が、とても緩やかでポジティブな情報の流通を作り出す

難しいことを言うつもりは全然ないんです。例えば「お金を落とすこと」ってめちゃくちゃ大事なことなんですが、「風景写真撮りに来るんだったら、地元でお金落としていけ!」的に声高に要求すると、急になんだか心理的ハードルがぐっとあがる。つまりどんな行動でも、それがたとえ確かに必要な方策であったとしても、人の行動を「べき論」的に規定していくと、窮屈になってくる。特に写真は本来快楽的な行動なので、何か義務が増えれば増えるほど、億劫な気分になります。最終的に「行くのやめよ」ってなっちゃう。これでは元も子もない。

だからそういう「べき論」的な部分は、より大きな、全体のデザインを統合的にできる自治体や企業の役割なんです。まず我々個人ができるのは、感情的な部分で「ちょっと味方をする」ような、そういうやんわりしたポジティブな感情を蓄積することが大事なんじゃないかと。

なんでそんなことを言うかといいますと、風景写真って、ある一瞬の絶景だけを切り取って帰っちゃうことって結構多いんです。例えばそれが今日の一番最初の話題で取り上げた、花火です。特に僕の場合は普通の撮影で行くような場所ではなくて、随分離れた場所に行くので、地元の出店なんかにもお金を使うことができない。行って帰ったところで、地元に全然経済的に還元できないんですね。

でも、そういう一瞬の撮影でも、何度か行くうちに道すがら見える風景を覚えていく。そして「土地勘」が出来上がる。その土地勘が蓄積されると、いくつかの「好きな光景」が脳内にマッピングされていく。それが、感情的な「ああ、ここ好きだなあ」という愛着へとつながっていく。そうなると、例えば花火とか桜とか紅葉とか、そういう「絶景系」ではないタイミングで、改めてその場所を訪れたい、撮りたい、なんていう気持ちが少し出てくるかもしれない。そしたら、多分次行くときはその場でご飯食べたりとかするようになるんですよね。そういう行動の根本的な基盤になるのが、その場所への「土地勘に基づく愛着」だと

5.信者化を回避する

一方、こういうメンタル的な部分の「好意」は、一言で言えばある特定の「傾向性」のことを意味します。メンタルな傾きですね。フラットな状態では、人間は好意も悪意も抱いていない状態なわけで、つまりは「無関心」です。「好意」とは、平たく言えば「心の傾き」です。つまりそれは、より先鋭化しやすいという性質を持っています。ドリカムが歌うように「どんどん好きになってくる」もんなんですね。で、その行き着く先は「信者化」です。

勿論、全ての「信者」や、あるいは「強い感情」が悪いということを言いたいわけではないんです。そこは強調しておきますね。

ただ、昨今のSNSを見ていると、強い好意は他者への強い抑制を要求しがちで、その強い要求は、僅かなエラーを過剰に責め立てる「魔女狩りの空間」を現出させます。ある種のワルプルギスの夜ですね。僕がこの文章内で、「ゆるい好意」みたいな書き方をしている理由は、「強い好意」は「強い敵意」を同時に生みがちな傾向があるからです。勿論「強い感情」が必要な困難な状況というのもときに存在するんですが、個人としてできることの範囲の中でそれを期待するのは、弊害のほうが多いと思っています。僕ら個人が「魔女狩り裁判官」にならないためには、「魔女」が現出する歪んだ空間そのものを生み出さないような、フラットでルーズで許容性と冗長性の高い、「ゆるふわな連帯感」を作ることだと思うんです。で、リジットなルール作りは、基本自治体だったり企業が、地元と相談しながら作り上げていくのが良いんじゃないかと思ってます。ようは、役割分担ですね。僕らが裁判官になる必要はない。ビッグブラザー式の相互監視の先にあるのは、『1984』の匿名密告社会の悪夢だけです。(勿論すでにそのような悪夢は、しっかりこの社会において実現しちゃってるわけですが。村上春樹が『1Q84』で描いた「リトル・ピープル」とは、我々自身のことでしょうから)

一方、「ゆるい好意」を持つことで、多分僕らは、人が耕した大事な畑や、大事に守られている花畑を踏みあらすようなことを、主体的にしなくなると思うんです。勿論、状況を一変する「救世主」にはなれないでしょうし、時々間違うことさえあるにせよ、全体の平均的な好意が底上げされれば、その場所をめぐる雰囲気は、わずかずつでもポジティブなものになるはずです。

6.風景を撮ることによって、その場所の未分化の物語の語り部になること

話をもとに戻しましょう。今回は「魔女狩り」の話は本筋ではありません。あくまで僕ら個人の「土地勘」と「好意」の話です。

つまりそれらを持つということを一言でまとめると、僕ら風景写真家は、ある場所の写真を撮ることで、「その場所の未分化の物語の語り部」の一人になりうるのではないかと言うことです。勿論その場所には、過去から撮られてきた有名な絶景ポイントがあることでしょう。桜や花火や紅葉は、おそらくその物語の「メインチャプター」を形成する大きな物語になっています。でも、その「大きな物語」は欠落している部分も多い。まだ語られていない謎の物語を、僕ら個人の写真家が、ある日偶然見つけた場所で撮った、ちょっとお気に入りの写真で補うことができるんです。誰もまだ見てなかった、でも確かに、その場所でしか撮れない素晴らしい一枚の写真によって。そういう役割を「風景写真家」は担えるんじゃないか。それが僕の持っている大きな希望の一つなんです。

7.オフラインの無い時代、SNS時代における「写真」、ひいては「物語」のあり方

そしてこのような「物語の語り部」としての風景写真家のありかたは、オフラインの無い現代、あるいはSNSに全てつながってしまった現代における「写真」、あるいは「物語」のあり方の一つの理想形なんじゃないかと思っています。

なんだかややこしそうなことを長々と書いたんですが、大事なことは「ああ、あの場所!すごく素敵な場所なんだよ」って、撮った写真を見せながら口にして人に伝えるだけだと思うんですよね。一人が全部を塗り替えるような巨大な物語を語る必要なんて無いと思うんです。ちょっとした好意が、全体をわずかに変える。SNSやネットワークは、その「わずかに」の部分にレバレッジをかける構造があるので、僕ら自身は「小さい物語」を語ればいい。

僕らは風景写真を撮影するという行為を通じて、ある場所が紡ぎ出す物語の一部を、ネットワーク上にアップロードするわけです。それはどのような孤立した出し方であったとしても、ネットワーク上にある限りは必ずなにかの情報と接続される。それはおそらく付随した文章なりタグなり、それを見た人のコメントなりリツイートという形で、それが本来帰属すべき「大きな物語」の一端として、その場所を形成する情報体を形成するようになる。そうやって、SNS時代の物語は、次世代への新しい「本」となって、引き継がれていくことになるんじゃないか。その重要な結節点になるのが、「土地勘」であり「ゆるい愛着」なんじゃないかなと。

それが今回僕の書きたかったことでした。伝わることを願って。


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別所隆弘 / Takahiro Bessho

フォトグラファー。アメリカ文学研究者。滋賀、京都を中心とした”Around The Lake”というテーマでの撮影がライフワーク。インスタはこちら: https://www.instagram.com/takahiro_bessho/

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