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ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』読解 1 (あるいは過去からの手紙)

大学院在籍中にJames JoyceのUlyssesを読むコースワークがありました。受講者は僕含めたった3人。死にそうになりながら半年かけて輪読。まあつらかった。でも楽しかった。

その時書いたメモが急に出てきたので、そのまま転載してみる。こんなことを学生の時にやってましたという例として。そりゃ浮世離れします。26歳?27歳くらい?嗚呼、懐かしいな。読んでるとなんだか胸が詰まる。本当に深いものに対して自分が全く足りてなくて、必死でテクストに挑んでいるのがわかる。若い頃の自分の姿に励まされることになるなんて。写真がんばろう。

以下、インターネット黎明期から届いた古いメモ書きより転載。

【第四挿話「カリュプソ」について】
「カリュプソ」の冒頭は、「Mr. Leopold Bloom」の臓物好きを詳述するシーンから始まる。獣や鳥の内臓を好んで食べるのだが、中でもブルームは「羊の腎臓」が好きだという。

さて、冒頭というのは小説に限らず全ての物語形式において大事だけれども、ここで注目すべきことはなんだろうかと考える。まずは、ディーダラスのパートであったここまでの三章との文章トーンのドラスティックな対比が顕著だ。抽象的な思考を好むディーダラスの警句的な性格と、俗的な関心に満ちたブルームの人物的性質の対比が、文体レベルで対比されている様に思える。特に、しつこいくらいに臓物への嗜好を綴った後、中でも羊の腎臓が好きな理由が「ほのかな尿のにおい」と来ているから、ブルームの身体的な感受性の鋭さは、すぐに外面世界からシンボリズムを読み取ろうとする霊的で詩的なディーダラスのそれとは、かなり相違がある。 

そうした臓物嗜好的なブルームが、ダブリンの町をこの後うろつくが、極めて象徴的なのは、彼が「腎臓のことを考えながら」歩いているという、第二段落の文章。ここで「食べる」というフェイズが、物理的な空間性を獲得することになる。結果、ダブリンという町が、ブルームの食欲と結び付けられることによって、都市空間は身体空間と密接に結びつくように思われる。

こうした都市空間を放浪するブルームの動きは、いわば彼自身の身体内における「循環」の一種のアレゴリーとして機能しているのだろうか?「循環」というのは意外に目に見えないキーワードの一つで、ここからは都市を歩く「歩行」や身体を駆け巡る「食物(≒血液)」と同様に「循環」する「金銭」というテーマが出てくる。「カリュプソ」中に何度か出てくる経済的なブルームのけち臭さ、俗っぽさは、彼の関心が身体や食、あるいは女などと同様に金銭にも確実に向いていることを示唆する。それはまた、自分の稼ぎだした給金にすら羞恥心を覚えるディーダラスの感性と著しい対照を見せる。

 【時間と空間 】
ジョイスにとっての物語空間と時間の問題については、『フィネガンズ・ウェイク』の冒頭とラストを見ても顕著なように、明らかにある一つの重大なテーマを含んでいるようだ。その点についても、第四挿話「カリュプソ」は、いくつかの重要な示唆を提供する。まずはここ。歩き始めたブルームが、太陽の先を追い越そうと考えるところ。集英社文庫版の邦訳では144ページにあたる場所で、ブルームは太陽を追い越し続ければ、年を取ることはないと考える。非常に奇妙な考え方で、当たり前の話だけれどもたとえ太陽を追い越し続けても年はとる。ここでブルームの口を借りてジョイスが示唆するのは、むしろ時間性と空間性の混濁ないしは同位性ではないかと思われる。155ページで、ブルームは妙な恐怖に襲われる。そこで彼はこのように言う。

最古の人類。遠く大地の果てまでさまよい歩いて、捕囚から捕囚へ、いたるところで子孫をふやし、死んだり、生まれたり。今はそこに横たわって。もう生めない。死んだ。老婆の。灰色の陥没した世界の陰門。

時間の終りと世界の果ての問題。フィネガンズ・ウェイクにおいて、この「終り」と「果て」をなくしてしまう試みを実践したジョイスにとって、この問題はいったいいかなる意味があったのか。 

一つには、歴史の中心性と土地の周縁性の問題と絡めて考えることが出来る。何度も言及される「イギリス」と「アイルランド」の関係について。イギリスが時間的にも空間的にもアイルランドに対して「中心」的な場所を占めるのだとすると、アイルランドというのはまさに「果て」でもあり「周縁」でもあるという、ある階層的な劣位を引き受けざるを得ない。ある意味では、ジョイスの行う「最後」と「果て」の解消は、この階級的配置の解消を含んでいるのかもしれない。「輪廻転生」という言葉が出てくるのが興味深い。

【ユダヤ的なる問題として】
いったいどこまでユダヤ的な問題を『ユリシーズ』の中に追っていいのか、不安なところではある。ブルーム自身がユダヤ人であるということを考えると、明らかにジョイスはこのユダヤという人種の持っているある政治的な意味性を物語の中に持ち込もうとしているのは明白なのだけれども、その一方で、一体いかなる観点から「ユダヤ的なるもの」を物語に組み込もうとしたのかについては、細心の注意が必要であると考えられる。  
 単純な発想として。ブルームがひたすら歩くのは、ユダヤ人的な「放浪」とだぶってくるように思われる。先の引用でも「捕囚から捕囚へ」という言葉が示唆しているのは、勿論「バビロン捕囚」から由来しているのだろうから、歴史的な「放浪の民」としてのユダヤ人的歴史を、ブルームは物語上で空間的に再展開しているという風に考えることが出来る。彼のキャラ造型に見られる「臓物嗜好」「金銭嗜好」などは、皮相的なユダヤ的文化理解を反映しているとは、言えないこともない。しかし、今のところこの問題も、第四挿話の時点ではあまり突っ込みすぎるのも良くないような気がする。ミスリードでは元も子もない。しかしユダヤ人となると、どの作家も歩かせるのが好きだ。ソール・ベロー、マラマッド、オースター。アメリカ作家ばっかりだな、イギリス作家がユダヤ人を書いてるのって、そういえばあまり意識したことない。ジョイスのこれ以外で、有名な例ってあったっけな。 

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【第六挿話「ハデス」】
これまでのトーンから、打って変わって喧しい声のやり取りによって展開される一話になっている。特に僕が注目した点は、ある種のコミックレリーフな感覚。もっと言ってしまうならば、まるでB級ホラー的な感性。研究者的な立場に立っている人間は、文学を大仰に捉えすぎるようなところがあるものだけれども、例えばこの章でジョイスのコミカルな性質がふんだんに現れているのが、死んだディグナムの死体が、運ばれている最中に車がこけて、転倒しちゃうんじゃないのか、なんてことをブルームが妄想するシーンに現れているように思われる。 

どかん!転覆する。棺がどしんと道に落ちる。蓋がぱっくり開く。パディ・ディグナムの硬直死体が飛び出して、大きすぎる茶いろの服を着たまま土の上を転がる。赤い顔、いまは灰色。だらりと口をあけて。何事だいと尋ねているみたい。やっぱり閉じてやるべきだ。あいてるとひどい形相。それに内蔵の腐敗も早い。穴はみんなふさぐほうがずっといい。そうだよ、あれも。蝋で。括約筋がゆるむ。すべて封印すること。(245) 

このシーンなど、非常にピクチャレスクな短文の描写で、まるで目の前にシーンが浮かぶような「妄想」なんだけれども、実際にもしこのシーンが絵になってたら、あたかもそれはマイケル・ジャクソンのスリラーの曲の様な、死体が滑稽にゾンビ化しちゃったような、悪趣味すれすれのコミカルな感覚があるような気がする。  それを補強するのが、ある種の露骨な性的妄想が進むさまで、例えばブルームは、この葬式のシーンでも、妻の浮気の相手ブレイセズ・ボイランのことを考え続けているわけだけれども、それとの関連で、妻と最初に持った性交渉の情景を思い出す。i'm dying for it!と叫ぶモリーのことを思い出すブルーム。和訳すると、ここは勿論「イッちゃう!」とよがり狂っている台詞なわけで、しかもブルームときたらご丁寧なことに、モリーが窓際でスタンディング・ファックをするのが好きな、微妙に露出の気があることまで、思い出している。この部分を書かせる感性なんかは、ゾンビモノの映画の最初に、男女が草むらでエッチして、女の子の奇麗なおっぱいがどーんと画面に出てくるサービスカットの様な、卑近な悪ふざけの風味がたっぷり効いている。

一方、そうしてB級ホラー的解釈とは正反対の、非常に深刻なブルームの問題意識も、読み取ることが出来る。ブルームはこの章でも、死んだ息子のルーディのことを思い描いている。また彼の父は、自殺をしているのだけれども、これはカトリックとプロテスタント、両方の宗教が混在しているアイルランドにおいても、タブーとされていることが挿話の中で指摘されている。このように。

 アイルランド人は自殺にはきびしい、幼児殺しに対しても。キリスト教徒としての埋葬を拒否する。昔は墓穴にいれてから心臓に木の杭を打ち込んだそうだ。すでに張り裂けた心臓だろうに。しかし手遅れになってから公開する自殺者もいるらしい。河底で水草にしがみついていた死体。彼はおれの顔を見た。(240) 

 自殺した人間が「復活」しないように、心臓に木の杭を打つ。これはある迷信をテーマにしてゴシックロマンスに仕立て上げた物語を思い出す。同じアイルランド出身の作家ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』。この部分の引用は、勿論キリスト教的な慣習的な自殺者の埋葬法を書いた部分であるのだけれども、その一方で、ヴァンピリズムを彷彿させるこの風習によってブルームの父が埋葬されているのだということを読み取ることも出来る。そしてルーディーもまた、「幼児殺し」に当てはまるとするならば、「ブルームの父  - レオポルド・ブルーム - ルーディー・ブルーム」のつながりは、祖父から孫の「生の連鎖」を形成しているのではなく、ブルームは、すでに死んでしまった二人の自分の血縁者と「死の連鎖」を形成していると読むことが出来るだろう。

そう考えるならば、現に生きているブルームは半ばを死んだ人間として歩いているようなもので、この半死半生というブルームの存在の形式は、上で述べたようなヴァンピリスティックなイメージとも繋がることが出来るし、あるいは「存在しながら見えることの無い」ユダヤ的な問題、つまり中心的課題と繋がることも出来る。第一挿話において、カトリック系アイルランド人であるディージー校長によって、「アイルランドにはユダヤ人はいない」とされたこの物語において、いわばブルームは「存在していない幽霊」として、「さまよえるユダヤ人」として、アイルランドの町を彷徨しなければならない。彼の視線が向く先は、第四挿話のカリュプソでもしばし言及されていたように、「光」でも「闇」でもない、「灰色」という中間的、漸進的な色を帯びていた。彼は光の世界でも闇の世界でもない、中間的領域、マージナルですらない、その境界線上を歩く「ユダヤ人」として、このアイルランドの首都ダブリンを歩く。そしてディグナムの葬式の後、ダブリンの町の中を歩くブルームは、街の中に死者の記憶が溢れていることに気付く。

 ミスタ・ブルームは誰にも話しかけられることもなくパーネルの並木道を歩き、悲しみの天使たち、十字架たち、折れた柱たち、家族の墓所の円天井たち、天を仰いで祈る石の希望たち、古いアイルランドの心たち手たちのそばを通り過ぎた。どうせ金をかけるなら生きている人間の慈善に使うほうが有意義だよ。魂の安息のために祈る。本気かね、みなさん?(278-279)

いわばレオポルド・ブルームにとっては、このダブリンという町は死者の宮殿なのだ。そういえば、第四挿話「カリュプソ」においても、レオポルドはダブリンの町を、「死んだ。老婆の。灰色の陥没した世界の陰門」と表現し、それを「荒廃。灰色の恐怖」と結んでいた。レオポルドにとっては、ダブリンは生者の町ではない。死んだ者が死んだままに、なんどもなんどもよみがえる、悪夢の如きリーンカーネーション(メテンプシコシスというギリシャ語で表現していたけれど)の世界なのだ。そしてジョイス自身は、この悪夢のリーンカーネーションを「インキュビズム」と名付けた。それがこのハデスの、中心的なイメージのようでもある。

他にも色々面白いことはこの挿話中から発見できるのだけれど、簡単に忘れないように記しておこう。「鍵」を失ったブルームと、同じく「鍵」をマリガンに渡したディーダラスという共通項。父を失った息子として、息子を失った父として、妻を失いつつある夫として、三重の形で「- less」という存在性を負わされているブルームは、「鍵」を失ったことで、homelessにもなりつつある。などなど。

【挿話からの休憩】
ジョイスのユリシーズの第六挿話「ハデス」の中で、語り手レオポルド・ブルームが、友人ディグナムの死体が納められている棺おけのことを考えながら、当時出来たばかりの現代技術だった「電話」を棺おけの中に設置すれば、死者と会話できるじゃん、なんて考えるシーンがある。僕はこの妄想が大好きで、文学者を素晴らしいと思えるのは、こういう面白いことをちゃんと書いてくれるところにある。それにくらべれば「正しい意見」の効率のいい押し付けがましさなんて、あぶくに過ぎない。 

手紙。電報。電話。ネット。

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