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ある女の子の話(あるいは、小さい声を聞き逃さないということについて)

小学校の時の記憶って残ってますか?実は僕は殆ど残ってないんです。中学から違う学区に通うことになったので、小学校からの繋がりが完全に途切れたからかもしれません。まるでぼんやり霧がかかったような感触があって、ところどころ残っている記憶も実感のない蜃気楼のような覚束ないものばかりです。でもそんな中で一つ強烈に残っている記憶があります。山本さんという女の子のことです。数年に一度、その子のことを思い出します。今でも残る苦々しい気持ちと、ある種の祈りのような感覚を伴って。

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小学4年生の時の担任の先生は、地域でも有名な先生でした。朝にはみんなでダンスを踊って協調性を高めるだとか、その頃はまだ先進的だった英語本の読み聞かせだとか、なんだか色々やってた先生だったように思います。僕はそのクラスにうまく馴染めない何人かの生徒の内の一人でした。子どもの頃から絶対的な何かというのに警戒心が強かったせいで、教師の強烈なビジョンについていけなかったんですね。なのであからさまではないにせよ、僕は先生から疎まれるようになりました。殆どの子どもたちがキラキラとした目をして先生についていくのを、なんだか居心地悪く教室の隅でやり過ごすような、そんな毎日を過ごしていたことを覚えています。

僕を含め、お互い海の孤島のように孤立していた「馴染めない子」たちのうちの一人、それが山本さんでした。山本さんは僕のように先生のことが苦手で馴染めなかったというより、昔の小学校にはクラスに数人いた、「ちょっと変わった感じの子」という雰囲気のために、クラスの中でおそらくは望まぬ形で浮いていました。当時の小学校にはそういう子どもをケアするようなシステムはまだ整っておらず、「なんかへんな子」としてクラスメイトから疎まれていたようにおもいます。僕の小学生時代はそんな子がたくさんいました。

でもそれだけだったら山本さんがそこまでクラスから疎外されることも多分なかったはずです。いつだってそういう子はクラスに数人はいましたし、そういう子が常にクラスから浮いていたかというと、そうでもなかったように記憶しています。彼女にその後襲いかかることになる種々の苦難は、主に二つの理由が加わったことによるのではないかと思うのです。一つは山本さんが母子家庭で、住む家がボロボロのまるで廃屋のようなあばら家に住んでいたこと。おかあさんはどうやら夜遅くまで仕事をしているようで、山本さんはいつもひとりでその半壊の家に帰って行きました。クラスメイトたちはその姿を半ば気味悪がり、半ばおもしろがって、「お化け屋敷に帰る子」と山本さんを呼ぶようになりました。

もう一つは、給食を全部食べられなかったんです。特にパンと牛乳。いつも残して、その残りを机の奥に突っ込んでおいて、授業が終わった後に家にもちかえっていたようでした。だからいつも、なにがしかの残飯の匂いが山本さんの机の近辺にはただよっていました。そこから山本さんは「ゴミ屋敷」と呼ばれるようになりました。家はお化け屋敷で、学校ではゴミ屋敷。子どもらしい残酷でストレートなネーミングです。

そうした状況を、先生は是正しようとしていなかったように思います。少なくとも僕の目にはそう映りました。今でさえいじめ問題は対応が難しいですが、当時はそのようなことに教員が目を向けることさえ少なかったのでは無いかという気がします。担任の先生は、キラキラした目の子どもたちが大好きでした。その子たちを美しい合唱や美しいマスゲームや美しい英語スピーチに導くことがすごく好きで、彼らが生み出す成果は驚くべきものでした。一神教的な支配力というのは、何か一つの明確な成果を上げるためにはすごく都合のいいシステムなんです。担任の先生によって支配された神聖国家4年A組は、地域ですごく輝かしい成果を上げ続けます。新聞にさえ載ったということを聞きました。そんなクラスの隅っこで、そこになんとなく馴染めなかった僕と、キラキラした目の子どもたち、そして彼らに蔑まれ、嘲笑された山本さんがいました。

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ある時、あれはちょうど梅雨に入る頃でした。山本さんが前日に残した牛乳とパンが机の奥から出てきました。持ち帰るのを忘れて1日放って置かれた牛乳はしっかり腐って、パンは少しカビてました。あつくてムシムシした教室内の、さらに不衛生な机の中の狭い空間で、一気に醸されたのでしょう。誰かがその異臭に気づいて、机の上には引っ張り出したのでした。教室中に響く嬌声と、急速に充満する嗜虐的な興奮。何かが弾けようというまさにその矢先、先生の厳しい声がクラス中に響きました。

「山本さん、それを食べなさい」

耳を疑いました。というか、多分クラスメイト全員がさすがにびっくりしていたように覚えています。だって明らかに腐った牛乳とパンだったから。いくらなんでもこれ食べたら腹痛になる。今なら明らかに教師の虐待になって、次の日にはネットで大炎上という案件でしょう。でも当時はこんなことだらけでした。道歩いてるだけで体育教師に顔面殴られたことがあるくらいです。頭おかしい教師は本当にたくさんいました。この程度、実に日常的なことだったのでしょう。今から考えれば異様なことだけれど。

クラスが静まりかえる中、もう一度先生がいいます。「食べなさい」。まるでクラスの温度が下がったような冷たい冷たい宣告。さすがの普段キラキラした目線の子どもたちでさえ、なんだか意気消沈しているように見えました。ふと何か、小さい声が聞こえます。小さく引き攣るような、笑い声のような細い声。それは笑い声じゃなくて、しゃくりあげながら細く細く泣く山本さんの声でした。何に泣いていたのか、何が怖かったのか。今まで一度もクラスで嫌なことを言われても無表情に耐えていた山本さんが泣いていました。僕はクラスの反対側の席でそれを見て、強い違和感をおぼえます。今すぐここから出て行きたいという、ほとんど衝動的な気持ち。でも流石にこの状況で立ち上がることもできず、僕はムカムカする吐き気を押さえ込んで黙っていました。

山本さんがひとしきり泣き終わると、再び先生が口を開きます。今度は幾分優しげな、でも重々しい宣託のような声で。何を言ったのかはっきり覚えていないのですが、多分食物は大事なものだ、みたいな話だったはずです。そしてその大事さを山本さんに教えるために、いまこれを食べさせようとしたのだというような、そういう「深イイ話」だったはずです。僕はひたすら吐き気を我慢して座っていたので、その話のほとんどを聞かず、ただボンヤリすわっていました。まわりにいた生徒たちの目が再びキラキラし始めて、「そうだったのか!」という理解とともに、さらに強化された忠誠心を燃料にして輝きました。

その後の日々は、山本さんにとっては地獄の半年だったと思います。それまではそれほど公然とした形を取っていなかった山本さんへのいじめは、「腐った牛乳とパン」を触媒に、あの日以来、一気に魔女を駆り立てる狂気を孕むようになりました。これまでこっそりと「お化け」とか「ゴミ屋敷」とか陰口をいわれるだけだった彼女は、机に落書きされ、体操服を隠され、彼女のものではないゴミを机に詰められるようになりました。僕の見えないところではもっとひどいことをされていたのかもしれません。でも山本さんがそれに苦しんでいたのかどうかさえ僕にはよくわかりませんでした。というよりも、彼女自身、それがどういう「悪意」なのかを最後まで正確に理解出来ていなかったような気がします。あの「魔女裁判」の日以来、そういう嫌がらせを受けても、山本さんはついに涙を見せませんでした。

この辺りで言っておきたいのですが、この話の中における僕は何もしないただの傍観者です。何一つできなかった。なのでこの話のオチで彼女が救われるようなことはないんです。それどころか僕は山本さんに少しイラついていたように思います。なぜ戦わないのか。なぜ声をあげないのか。なぜお母さんは何もしないのか。ほかの先生に相談しないのか。僕自身が小学校に入学した当時、隣の学区から来たたった一人の子どもだったという理由でいじめを受けて、それをなんとか切り抜けた経験がありました。なので、何もしない山本さんに苛立っていたような気がします。

もちろん、今ならわかります、山本さんは何一つ対策を立てられるような状況になかったことを。社会も周囲も、学校や親でさえ、彼女の助けにならなかったことを。あの先生は、そういった山本さんの置かれた状況に気づかないふりをして、彼女をより完全な支配のための「犠牲の羊」に捧げたのだろうということが今なら分かります。僕は単にクラスの中の半分腐ったリンゴとして腐るがままに放って置かれましたが、山本さんはそうではなかった。彼女を「模範的な劣等者」として線引きをして切り捨てることを通じて、目をキラキラさせていた子どもたちは数々の成果を上げていきました。それは本当に美しい、本当に素晴らしい成果でした。

半年後、山本さんは転校することになりました。春休み前の終業式の日、みんなの前で小さな声で「今までみんな一緒に遊んでくれてありがとうございました」と手紙を読み上げた山本さんに、クラスのみんながとても温かい拍手をおくりました。先生もとても晴れがましい顔で、その本当に美しい友愛に満足げに拍手をしました。山本さんはこちらを見ません。最後まで足元を見つめていました。そうしてクラスは解散です。春休みに入り、5年生になるとクラス替え。みんな春になると山本さんのことなんてすっかり忘れて、内装工事が入ってピカピカになった、最上階の上級生の部屋での日々を始めることになります。

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その様な未来が始まるちょっと前、まさにその終業式の日の夕方、ちょっとした事件が起こりました。あの美しいクラスメイトも教師もおそらく知らない、僕だけが知るこの話のささやかなラストチャプターです。

それは夕方の時刻に起こりました。僕は終業式が終わると家に帰り、「春休みに遊ぶファミコンゲームを買ってくれ!」と母に要求をしていたような、そういうちょっと気が抜けたようなタイミングだった気がします。家のチャイムが鳴りました。母親は夕食の準備をしていたので、僕が表に出ます。

扉を開けると山本さんが目の前に立っていました。真正面に山本さんを見たのは多分その時が初めてだった気がします。今でも覚えているストレートの真っ黒の髪と、冬の夜のような真っ黒な目。もし彼女がどこか別の家に生まれていたら、全然ちがったすごく華やかな人生も待っていたのかもしれない、そんなことを今なら思います。

でも一瞬後に訪れたのは、圧倒的なパニックでした。だって、同級生の女の子が家に来るなんて一度もなかったことですから。まず最初に僕が思ったのは、この瞬間、母親が玄関に来たらどうしよう!と言うことでした。この瞬間を見られるのはなんとしても避けたかった。場違いな焦りに突き動かされて、「なんか用?」みたいな、つっけんどんなことを言ったきがします。すると山本さんは、手に持っていた箱を僕に押し付けてそのまま帰っていきました。わずか数秒のことでした。

一瞬の心の空白ののち、最初に沸き立った感情は、強烈な羞恥心でした。「母親にこれを見つかったらどうしよう!?」という謎の羞恥心に、身も心も焼かれそうになって、焦って二階の自室に駆け上がりました。背後で母親が何かを言ってた気がするんですが、それも耳に入りません。心臓のドキドキが収まるまで、僕は二階の暗闇の中でじっと呼吸を整えました。

その後一旦階下に戻って、母親に何か聞かれたことに多分何か適当な返事をして、そのまま夕食を食べます。ほとんど味もしない夕食を無理矢理かきこむように。そして再び二階の自分の部屋へ戻り、ベッドの下に隠しておいた箱を開けました。それはひと月遅れのバレンタインチョコでした。小学生だった僕が当時まだ食べたことのなかった、大人っぽいボンボンショコラです。今ならわかるんですが、多分お母さんからもらったかなにか、そういうものだったのだろうと思うのです。さらに、箱の下には、一枚の紙が入っていました。ノートから破ったような紙でした。その小さな破りとった紙には一言だけ、

「ありがとう」

という言葉が書かれていました。小さな小さな文字。それをみて、僕は途方にくれました。僕は一体、感謝されるような何をしたんだっけ?羞恥心はすでに収まり、代わりに僕に残されたのは、居心地の悪さだけでした。

これが僕が小学四年生の最後に経験した、ある女の子にまつわる話の顛末です。何人かの友人にはこれまで話したことがあるんですが、こんなにしっかり書いたのははじめてのことです。

途中で書きましたが、この事で何か誰かが救われたり、僕が頑張って何かを成し遂げたりとかいう、そういうことは何一つないんです。何一つ変えられなかったし、その後山本さんがどう言う人生を送ったのかも僕は知りません。5年生にもなるとすっかり山本さんのことはみんな忘れて、だんだんと近づく修羅の中学時代に備えた「自我」が芽生え始めるころでした。キラキラとした目で先生に陶酔していた子どもたちも、あのクラスから解放された途端、徐々にふつうの子どもたちになっていきました。その後何人かとは一緒に遊べるようにさえなりました。山本さんなんて、最初からいなかったかのように、彼女は僕の記憶からも徐々にきえていきます。

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ところが20代に入ったころから、数年に1度、ふと山本さんのことを思い出すようになりました。あの頃の克明な記憶を伴って。それはまるで、「この記憶を忘れるな!」と、僕の心が僕自身に対して警告しているような、そんな感じです。今回思い出したのは、新幹線の窓から外を見ているときでした。久しぶりに山本さんのことを思い出しました。いつも前触れもなく急に思い出します。そして思い出したからには、今の僕なりのなんらかの「態度」を取らねばならない。それが、あの頃何もできなかった僕の、大人としての責務のような気がするんです。

山本さんがなぜ「ありがとう」という紙切れを残したのか、その真意はわかりません。もしかしたら彼女は、ほかの人のように彼女へのイジメに僕が加担しなかったことに対して感謝してくれたのかもしれない。でも、事実は全然違う。僕は単純に、面倒だっただけなんです。僕自身がいじめを経験していたというのもあって、そういう物事に関わるのがとにかく面倒で嫌だった。だから僕は、そこにいない透明人間のふりをしていただけなんです。結果としてそれが、どこにも加担しないという態度表明のような機能を果たしかもしれない。でも僕自身の気持ちはそうではなかった。その齟齬、その違和感のために、僕は何度もこの話を思い出している。その根っこにある感情を今日ぼくは、新幹線の中で一人で探っていました。僕の中にあるこの違和感の根元にある感情はなんなのか。新幹線の移動中という、宙ぶらりんの時間は好都合でした。そして一つの回答じみたものを見つけたので、今こうやって文章を書いています。

多分僕がずっと感じて来たのは、受ける権利もないような大事な感情を託されたことに対する、疚しさだったんじゃないか、そんな風に思います。僕に向けてくれた彼女の最後の「感謝」を受けるような行為を僕は全くしなかった。まるで自分のものではない手柄を不当に得たような、そんな疚しさが心の底に小さな棘の様に残って疼いてたことに気づきます。そして途方も無いくらいに手遅れの感覚。そしてそれに無理やり蓋をして忘れようと努力したのです。

そう、そして今更僕は、後悔をしている。あの時、何もしなかった自分の態度に。上のほうで「面倒だった」って書いたのですが、それはちょっと嘘とまでは言わないにせよ、正確な表現ではなかった気がします。多分僕は怖かったんですよね。同級生たちではなく、先生が。まだ小さな女の子が直面した、あれほど明確な苦境を、大人が、しかも先生が救おうとさえしなかった、「大人の欺瞞」の空々しい迫力に慄いた、そんな気がします。それは僕が見たはじめての圧倒的な大人のずる賢さだったように思います。親たちが被っていた保護者の仮面から見えなかった、潔いほどの現実的な「大人のこわさ」に直面して、僕は多分面倒なふり、絶望したふりをして流そうとした、ただそれだけだったような気がするんです。でも心の底ではわかっていた、大人には逆らえないって。逆らったらもっともっと大変で面倒なことになる。だから僕は教室の隅っこで腐ったリンゴを演じていたんだろうと思うんです。もしあの頃にロックに出会っていたらと思わないでもない。でも僕が戦う魂を学ぶロックに出会うのは、ここからちょうど一年後のことでした。

この文章はだから、ある意味では懺悔であり、また祈りでもあります。あの頃僕は何もできない非力な子どもでした。でも今僕は大人になったわけです。立ち位置は驚くべきことに教員でもあります。小学校の教員のようにダイレクトな形でのいじめの現場に巡り合うことは殆どないんですが、でもこの問題の根っこは結局のところ今の「魔女狩り社会」と同じものだと思うんです。この社会で僕は注意深く、「小さい声」を聞き逃さない存在になりたいんです。遠いところは僕では無理にせよ、少なくとも自分の周囲の小さな声くらいは。村上春樹がいみじくも言ったように、最も大事なことは最も小さい声で語られるものであって、僕はそれを出来る限り聞き逃さない力をつけたいんです。そのために僕はもっと賢く、もっと力をつけなければならない。単純な自己満足に陥らないために、注意深く賢く強くならねばならない。そう思ったからこそ、このノートを書きました。自分への備忘録として。

(注)物事の経緯に過度の現実性が伴わないように、必要に応じてフィクションを混ぜ込んでいます。日時や場所、細かい情報の全ては現実とは違うものです。でも起こった物事の全ては、そのままです。一人の小学生が助けも得られず傷つき、去っていき、僕は何もできなかった。そういう話でした。

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