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写真家の立場でみる「多様性」について(あるいは、懐かしき「白と金」と「青と黒」のドレスへ捧げるオード)

数年前の話ですが、広範囲に話題になったので覚えておられるかもしれない「白と金」「青と黒」の色のドレスの話です。以下にその時起こったことがまとめられている記事がありましたので、ご存知無い方はご参照ください。

ちなみに僕はこのトップ画像のワンピースは「白と金」に見えます。初めて見た瞬間、これは「青と黒に見える人が結構いるだろうな」と直感的に思いました。一応写真を仕事にしている立場上、この写真のからくりというか、なぜ「白金に見える人」と「青黒に見える人」の違いが出るのかよくわかっていたのです。環境光の影響を視覚内で除去する人と、影響を受けやすい人がいることを知っていたんですね。カメラにも「ホワイトバランス」という設定があるんですが、やはり環境光の影響を受けやすいカメラと受けにくいカメラがあります。最終的にこのワンピースは実際には「青と黒」のワンピースなので、「白と金」に見える僕は環境光の影響を強く受ける視覚を持っているようです。というよりも、脳がそのような傾向を持っているんでしょう。

上の記事の中でも、この方の説明が具体的で秀逸ですね。

2つの画像に書かれたワンピースは同じ色です(実際には”ほぼ同じ”、なんですが)。こうして2つ並べられているのに、白と黒という強い環境光(環境色ですが)によって、我々の脳は2つのワンピースの色の理解に、各人固有の偏差を与えてしまいます。

カメラや絵に携わっていない人はこのことを不思議に思われる言及をあの頃よく観たのですが、これは実は日々写真の世界では起こっていることの一つです。次の写真はDJIのドローンのお仕事で撮影した沖縄の海ですが、この写真をみた友人の一人が「すごく青いねえ」といいました。

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僕はその感想に結構びっくりしたんです。僕はこれをグリーンとかエメラルドと思っていたので、「青」と表現されたことに驚いたのです。でもよく考えると、海は青いものだし、青という色の範囲はアクアと接しています。おそらくこの画像の海の部分のカラースキームを調べれば、この色は多分アクアに近い色だろうと。となると、一般的には青と緑の中間の色がアクアなので、アクアを「緑」と感じても、「青」と感じても、さほど不思議はありません。そしてその感じ方自体が、我々の脳にさらなる偏差を与えます。この写真を見た友人の目には、僕が見ているよりもよっぽど「青い海」が見えているのかもしれません。そしてそのお互いの見た色は、絶対に共有不可能なんです。「同じ色」が目の前に存在しているにもかかわらず、そして同じ人種で同じ文化圏に住んでいるにもかかわらず、見ている色が違う。つまりそれは、「見ている世界が違う」ということを意味します。

もしかしたら彼の目にはこんなふうに上の写真は見えていたのかもしれません。

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ホワイトバランスだけを青寄りに変更してみました。これなら僕にも、海は「青く」見えます。でもこの写真もまた「エメラルド」に見える人がいるのかもしれません。このことの面白さ故に、僕は写真をやり続けているようなところがあります。

つまり、すこしクールな言い方をするならば、「世界は人の数だけ存在する」ということになります。もちろん、我々の見ている「世界」の向こうには、完全に統一された「真なる世界」があるのかもしれません。古代ギリシャの哲学者は、この世界を「イデア」と呼びました。数学や物理学の世界で定位する世界はそのような世界です。人間の「観測」という事態を排除した世界。でも、そのような世界は存在しないと僕は思っています。少なくとも、僕が生きている間に「真なる世界の姿」を見ることなんてないと確信しています。世界は人間に見られる限りにおいて存在している。そして人間の数だけ世界は存在している。そういうことなんだろうと。

というようなことを考えたのは、最近よく「多様性」という単語を目にする機会があったからです。写真をやっている人間の立場からいうと、多様性とは「黒と青のワンピース」と「白と金のワンピース」がともに存在する世界なんだろうなと言うことです。もちろん、今回の冒頭のワンピースに関して言えば、ワンピースは事実として「黒と青」なので、「白と金」が「間違っている」と指摘することは簡単なんです。でも世界には、事物の真実を「あっているか」「まちがっているか」を確認できない事象が山のようにあります。

上のドローン写真の「エメラルドグリーン」が、実際には「青」だった可能性もある。でもあの日の太陽光であの日の海を上からみた人間はそれほど多くない。そしてこの世界には二度と同じ条件は現れない。であれば、誰かが見た世界が偽であるとか真であるとか言うのは、それ自体そもそもナンセンスなわけです。

こういう事例が我々に伝える教訓は、「多様性とは、脳の偏差が互いに異なる、自分とは違った思考や発想を持つ他者が同じ世界に存在することを、当たり前のように流すこと」である気がします。「流す」という単語は、今の日本の実情に合わせて選んだ単語です。例えばこの「流す」を「受け入れる」に変えてもいいし、「理解する」とか「共感する」に変えてもいいし、「我慢する」というふうにちょっとネガティブな表現にかえてもいい。最後の部分の単語は、いわば「社会全体の許容度」の問題によって変わる変数Xのようなものです。日本は同調圧力の強い村社会なので、せいぜいが「流す」程度が限界と僕は思っているんですが、これが「受け入れる」とか「理解する」とかに変わったら良いなと思います。ですがまあそこまでは求めません。大事なのは「青と黒のワンピース」と「白と金のワンピース」に見える人が、本当にお互いの色が理解できないくらい、実はめちゃくちゃ違った「世界の見え方」をしているという点を、改めて知ることなんじゃないかという気がします。それが「多様性」というパワーワードを、それこそ「受け入れ」たり「理解する」ための、最初の一歩じゃないかなと。

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