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写真と文学 第十一回 「パラレルワールドと認識の拡張」

 1995年、「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」という目を引くタイトルの映画が公開された。もともとはテレビのオムニバスドラマの一編だったが、あまりにも出来が良かったために映画として翌年公開されたという逸話が残っている。

監督は映画「Love Letter」でその名を日本中に知らしめた若き岩井俊二だった。この2本の映像作品をきっかけとして岩井俊二監督が頭角を現したというのは、映画ファンにとっては周知の事実だろう。独特の構図感覚に加えて、映画全編がフィルム写真で撮られたかのようなノスタルジックな雰囲気に彩られており、今でいう「インスタ映え」の元祖のようなフォトジェニックな(というのも変な話だが)映画だった。

 ところでこの映画のビジュアル的な特性に加えて、もう1つこの映画を特徴づける要素は、この当時はまだ目立つほど多いとは言えなかったパラレルワールド(多重世界)ものだったということだ。この映画の元になったドラマが、そもそもパラレルワールド作品を集めるオムニバス形式の連続ドラマだったのだが、それで企画として成立してしまうことが、当時パラレルワールド作品が現在のようには飽和していなかったことを物語っている。

 さて、映画において「パラレルワールド」ものは今では珍しくなくなったが、文学の世界でも昔から「もしも」を描くような作品は多かった。そもそも「最初の近代文学作品」とも言われるセルバンテスの『ドン・キホーテ』も、主人公の頭の中の妄想と、現実世界が重ね書きされている、いわば「頭の中だけのもしも世界」を拡大したような小説だった。文学というのは、極言してしまうと「こうだったらいいな」と「こうだったらいやだな」の間を行き来する形式である以上、パラレルな感覚は常にある程度作品内に存在することになる。そんな中でも、究極の「パラレルワールド的性質」=「多重性」を獲得している作品は、今や日本の若手から中堅作家の中では著名な1人になった森見登美彦の『四畳半神話大系』だろう。この作品の面白さは、とにかくテキストの自意識過剰な語り口だ。

「大学三回生の春までの二年間、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとくはずし、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。」
―森見登美彦『四畳半神話大系』KADOKAWA、2008年※、P.5

 作家本人が京都大学の学生だったということもあり、まさに「自意識過剰な京大生」を地で行く言語先行型の頭でっかちな学生が、京都の街をぐでんぐでんに駆け抜けていく小説になっている。

 京都の人間にとっては抱腹絶倒の作品に仕上がっている怪作なのだが、この作品の根幹にパラレルワールドの形式が採用されている。4章仕立ての作品は、主人公が京都大学に入学したその日、勧誘された4種類の団体のどれに入るかで、物語が4つに分岐するという形式になっている。4章それぞれの出だしは一言一句まですべて同じ。その後の本編に至っても、細かな物語的な差異はあれども、同じ文章、同じレトリック、同じセリフ、同じイベントが繰り返し使われる。いわばある人間のエピソードを混ぜこぜにして「順列組み合わせ」してできあがった、4つの別のパターンのストーリーが、この小説ということだ。

 「こうなり得たかもしれない未来」が4つのパラレルワールドとして展開されることで、結果的に読者は主人公のキャンパスライフを俯瞰的に観察しているような感覚を獲得できる。そこに、前述の自意識あふれる語り口による主人公の主観的な視点も加わり、読者は主観と俯瞰の往復作業によって、この愛すべき学生生活を、自身の学生生活の記憶と重ねるように体験できるという構成だ。ちょうど作者と同じころに近くでみじめな大学院生活を謳歌していた私は、当時、その才能のあまりの鋭さに舌を巻いた。

 パラレルワールドとはすなわち、主人公の持つ「可能性」だ。主人公の拠点は四畳半の小さな下宿ながら、選択ひとつで無限の世界が展開される可能性が秘められていることが示される。この小説の「多重世界性」は、文学の歴史の中でも特筆すべきクオリティーを備えたものとして記憶されるべきだろう。

 このように、映画や文学において「多重世界」はおなじみのテーマなのだが、写真ではどうだろう?これまでの連載で書いてきたように、写真は本質的には時間的なメディアであり、一瞬を切り取ることによって、むしろ時間は「連続」していることを示唆するということを書いてきたつもりだ。さらに、写真によって切り取られた時間の「その後」を、見た人それぞれが頭の中で展開することで、無数のパラレルワールドがもたらされる。それは、『四畳半神話大系』における所属団体を選択する瞬間のようなものだ。写真もまた多重世界を描けるメディアなのだ。

 世界は多くの可能性を秘めている。それを写真を通じて最もシンプルに感じたのが、ドローン写真を初めて見た瞬間だった。

打ち上げ花火を「横から」見たときの世界と、「下から」見たときの世界がそれぞれに独自の世界系として存在したように、あるいは「四畳半」の中から順列組み合わせの物語が無数に飛び出したように、ある1つの場所には、我々人間がそのすべての可能性を認識し得ない「空間」が広がっている。そしてその目に見えない無数の空間が具体的に形となって示されるのが、鳥の目で世界を見たとき、すなわちドローン写真だ。こんなことは言うまでもない当然のことなのだが、我々の世界認識は、大体我々の身長の範囲内で制限されている。世界はせいぜい、120cmから200cmまで程度の80cmの幅から見える「構図」で構成されているのだ。もちろん、物理的にも理論的にも、世界はそんな狭い空間ではないことは分かっているにもかかわらず、我々の世界認識は、我々の視野の範囲内で切られた構図に制限され、押し込められている。ところが、ドローンを上空に飛ばすと、これまでカメラで培ってきた「構図」のことごとくが崩壊して、今まで頭の中で自動的に作り上げてきた撮影の手続きのすべてが無効化する事態に直面する。それと同時に、私のこれまでの認識の中にあった世界が崩壊するのだ。そして自身の認識の貧弱さに打ちのめされながらも、新たな可能性が広がっていることに気が付く。

 しばし上空を飛ぶドローンを下から見上げる。手元にはそのドローンから見た私が写っている。本来何ひとつ関係のない二つの視野が、「私の視野」として拡張される。その困難、その快楽。初めてファインダーを通して世界を見たときのような「ああ、世界はこんなふうにも見ることができるのだ」という、世界が増えた愉悦を、ドローンを通じて下の世界を見たときに感じた。それは飛行機から見る風景や、あるいはテレビで見る空撮映像とは本質的に違うものだ。なぜなら、ドローンで送られてくる映像は、私が選び取って、私が見ようとした、私の「視界」の代理だからだ。我々の世界認識は縦の方向に、理論上はほぼ無限に多層化し得ることが、ドローンによって示されたのだ。世界は四畳半の内側でさえ、横から、下から、あるいは上から見たときに無数に拡張され得る可能性を持ったものであることが、カメラによって示される。そのなんと痛快なことか!

*本文中で使用しているドローン画像は、全て筆者本人の名前で国土交通省の包括申請を取得の上、管轄の管理団体の許諾確認済みです。

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