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その祈りの先に

友人夫妻の出産が近づいています。これを書いている瞬間にも産まれるかもしれません。今思うのは、これから数ヶ月分の我々周りにいる人間の幸運が、神様の依怙贔屓で、産まれてくるその赤ん坊の上に注がれますようにというそのことだけです。無事にこの世界に来られるように。

30代の最初の頃、あるきっかけで重篤な赤ん坊たちが運び込まれてくる場所に三ヶ月ほどいたことがあります。親しい友人たちには時々言うのですが、いまでも僕の魂の半分はその場所にあります。

その場所で沢山の戦いと沢山の死を見ました。

生まれてまもなく、いま元気に生きている我々の誰ひとりとして経験したこともないような過酷な戦いを強いられる赤ん坊たち。その場所にはその子どもたちの小さな息遣いと、両親の張り詰めた心、そして赤ん坊たちの状態を知らせる沢山のアラームの音が満ちていました。時になにか重大な変化が起きると、その場所全体に強い緊張感が走ります。お医者さんたちや看護師さんたちの表情がほんの僅か、緊張感で鋭くなります。

戻ってくる赤ん坊もいれば、もう戻ってこられない赤ん坊もいます。沢山の死を見ました。そのたびに流される慟哭の涙も。その一つ一つが強烈な痕となって僕の心に刻まれました。もうこれ以上流れないと思っていた涙は、その度ごとにとめどなく流れます。後から後から。

沢山の奇跡も見ました。どう考えてももうだめに見えるという状況から、見事に元気に、戦い抜いた赤ん坊たち。生きることを強い決意で選び取った赤ん坊たち。その赤ん坊を、この世界で最も大事な宝物のように抱いて泣きながら笑顔を見せる両親。そんな姿を見ました。何度も。

そして多分、本当はすべての赤ん坊がそうなのです。病気があろうがなかろうが、望まれた子であろうとなかろうと、この世界に生まれてきたすべての赤ん坊たちは、今生きるすべての人間全員が諸手を挙げて祝福すべき存在なんだと、僕は本気で信じています。

僕は基本的に冷酷な人間です。この世界は呪いに溢れていて、本来祝福されるべき瞬間さえ、敵意と憎悪に満ちるときがあるのを、半ば諦めて、心に蓋をして、背を丸めて受け入れています。「こんなもんだ」と。でも、時に親しい人間に新たな生命が授かる時、そのような時くらい、僕の中に残った残り半分の魂が、この瞬間を全力で祝福し、祈るように命じます。

舞城王太郎がある著書の冒頭でこんな風に言っています。「愛は祈りだぼくは祈る。」赤ん坊の生誕が、いわゆる「愛の結晶」であるならば、それを見届ける我々周りの人間は祈るしかありません。その子に祝福がもたらされるように。無神論者が祈る祈りを。

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