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写真と文学 第二回「逆光がもたらす見えないもののドラマ」

 2016年に最も世間の話題をさらったエンターテイメント作品といえば、新海誠監督の映画「君の名は。」だろう。そのキービジュアルは2人の主人公である立花瀧と宮水三葉の2人が、太陽と流星を背に描かれているシーンだ。

宣伝で多用された最も有名な1枚だろう。この1枚以外にも、「君の名は。」の多くの映像には共通点がある。逆光が多いのだ、それも非常に。映画全編に渡って、新海誠監督は朝焼けや夕焼け、強い光源を背にした逆光表現を多用している。そこから1つ、導き出されることがある。それは、新海監督か、あるいは彼のスタッフの誰かに、現在のデジタルカメラにある程度以上精通している人間がいるということだ。

 逆光で写真を撮ったことがある人なら、あんな風には写らないことを知っているはずだ。古いデジタルカメラで撮ろうものなら、ダイナミックレンジが追い付かずに背景が白飛びするか、被写体2人が黒つぶれする。この「絵」が可能になるのは、カメラのHDR機能を活用するか、RAW現像でハイライトやシャドウを調整するという発想が必要だ。新海監督のインタビューなどを見ると、複数の光源を当てることで、あの美しい表現を可能にしているとのことだ。相当以上にカメラや写真を使いこなしていないとできない発想だ。下の写真はいわゆる「聖地」の1つ、東京の新宿警察署裏の高架下の部分だ。映画ではこのタイミングでRADWIMPSの「前前前世」が効果的にかかり、印象的な「都会の生活」が描かれる。このシーンと同じ場所に立って、同じ風に写真を撮って驚いた。ほとんど同じ「画」が出てくるのだ。

パースのつけ方から画角に入るビルの様子まで、自分で写真を撮ったとおりの画が、映画の中で「絵」になって使われている。おそらく制作過程で、このあたりを撮影した資料があるのだろう。ここで大事なのは、私が実際に撮影したときの画角は19mmだという点。つまり、超広角域という比較的マニアックなレンズで撮影されていることだ。さらに、ある程度写真に習熟していないと、この構図は作れない。新海監督がデジタルカメラ世代の写真的文脈を、明らかに映像の中に活用していることがうかがえる。であれば、あの「逆光」の多用もまた、単に「ドラマチックだから」というだけで使われているのではなく何か意味があるのかもしれない、と考えるのが、私のような文学研究者の悪い癖だ。アメリカの著名な作家であるスーザン・ソンタグは写真に関するたくさんの言葉を残しているが、彼女の表した『写真論』に、以下のような有名な一節がある。

「写真の含意は、世界をカメラが記録するとおりに受け入れるのであれば、私たちは世界について知っているということである。ところが、これでは理解の正反対であって、理解は世界を見かけ通りに受け入れないことから出発するのである。理解の可能性はすべて否といえる能力にかかっている。厳密に言えば、ひとは写真から理解するものはなにもない。」―スーザン・ソンタグ『写真論』近藤耕人(訳)、晶文社、1979年、P30-31

 哲学者のような彼女の文体を簡単に言い直すならば、写真は目の前の世界を記録をするのだが、その記録に「残らない」ものを含んだものこそが、世界なのだということだ。もっと噛み砕くと、見えているものを本当に理解するためには、「見えていないものは何なのか」まで考えなければいけないし、写真は「意図的に見えなくされたもの」を含んだ芸術様式であるということになる。センサーの高感度性能がどれだけ高くなっても、完全な闇に沈んでいる動体を捉えることは至難の技だし、そもそも画角の制限があるために、写真は常に世界の一部を「切り取る」ことしかできない。目の前から何かを意図的に切り捨てることで、写真は成立している。その1つの究極形が「逆光」だ。

逆光がドラマチックなのは、見えない部分を写真家自らがコントロールして「見えない快楽」を作り出すことによって、写真を見ている人の想像力や感動に訴えかけるからだ。逆光写真とはそうした効果を目指して「あえて見えない部分を作り出した写真」という風に言うことができる。写真が「光」と「影」によってできあがる芸術だとするならば、これほど「影」を意識したジャンルは他にないだろう。被写体が影になることで、写真は強力な物語性を獲得する。1人の見えない影が小さく入ることで、感情や思いが、写真全体の風景と連動しているようにさえ見える。これを見る我々は、正体が見えない影の中に、自分の思いや想像を託して、視る。写真の持っているイマジネーションは、たったワンショットでたくさんのものを「切り捨てる」ことで成立していることが、逆光写真を見ているとよく分かる。

さて、「君の名は。」に戻ろう。物語の核心に、ある1つの「秘密」が機能している。それは2人の物語の時間軸のずれだ。映画は立花瀧と宮水三葉の2人が生きる時間軸の「ずれ」がバレないように意識的に「隠して」いる。この映画は、「見せる部分」と「見せない部分」を意識的にコントロールすることで、物語の核心の秘密を効果的に演出しているのだ。それは被写体が意識的に影の中に沈められて見えなくなることによって、より一層ドラマチックな物語性を獲得する逆光写真に似ている。新海監督は物語の核心の秘密を我々の意識の「影」の中に沈めてしまうことで、ドラマを最大限に盛り上げ、そして最後のシーンで2人が「順光」の中で出会う爽やかな感動へと意図的につなげていっている。

 最後の最後、2人は階段ですれ違う。そのシーン、時間は出勤途中のおそらくは午前9時前後。主人公たちが出会う最後のシーンは新宿通り近くの四谷須賀神社の階段だ。最後のシーンを美しい光で迎えるために選ばれたかのように、北東から南西に向かって階段は登っている。振り返った2人に、南東側から上がる太陽が、ちょうど「順光」で当たる場所だ。小説版のラストシーン、立花瀧は、すれ違って振り返ったその瞬間に見た三葉の姿をこんな風に克明に描く。

だから、俺は振り向く。まったく同じ速度で、彼女も俺を見る。東京の街を背負って、瞳をまんまるに見開いて、彼女は階段に立っている。彼女の長い髪が、夕陽みたいな色の紐で結ばれていることに、俺は気づく。全身が、かすかに震える。―新海誠『小説君の名は。』KADOKAWA、2016年、P251

 彼女の長い髪、夕陽みたいな紐の色、何より背後まで見渡せる東京の街。「順光」の中だけで可能な視野が確保されていることが分かる。「逆光」の中で描かれるこの映画の影が振り払われ、春の光の中で主人公たちは前世からの出会いをついに果たす。このシーンを見ると、私はやはりこう結論づけざるを得ない。新海監督は写真家だって目指せたに違いない。

*オリジナルの原稿はデジタルカメラマガジンの2017年8月号に掲載されました。オリジナルとは選ぶ写真がちょっと違ったりしますので、ぜひオリジナルの方もKindle Unlimitedなどでご覧になってください。




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