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自分のいつもいる場所とは違う光と闇を見る(違うジャンルの撮影に挑戦するということ)

最近人物写真を何度か撮らせてもらってます。というか、意外と結構長く撮らせてもらってるんですよね、3年ほど前から。ただ、普段は風景写真を撮っていて、シーズンオフ的シーズンにちょこちょこ撮っているので、なかなか上達しないというのがネックなんですが、まあでも数年撮ってるわけです。

なかなか上達しないと書いたんですが、でもその撮影を経て僕が得た経験や知見は、多分惰性で風景写真を撮るよりもより深く広いものであるような気がします。今日の文章のテーマは、明確なんです。多くの人、特にカメラをやり始めた若い人たちに、できるだけ多様なジャンルに挑戦してほしいということなんです。

若い写真家のうちには、最近ボーダレスに色々撮る人たちが増えてきているような気がしますが、まだまだ風景は風景、人物は人物、スナップはスナップ、テーブルはテーブルというジャンル分けは、意識的・無意識的な壁となって我々の行動の外枠を決めているようなところがあります。でも少しその外側を見てみると、我々がジャンル内で見ていたのとはまったく違う「光」と「闇」が溢れていることに気づきます。

初めて人物を一眼レフで撮影した時、風景で良いと思っていた構図も光も、人物を撮るときには強すぎたり広すぎたりすることにすぐに気が付きました。それどころか、「人物」自体への理解も正反対です。風景は、やはり「人」を入れたくないと思う写真家が多いと思います。入れるときには入れるなりの必然性がない限り、できるだけ誰もいない風景を撮ろうとします。人物写真が「主題」とする「人」は、風景写真においては、ややもすると邪魔者扱いされるときさえあります。なんという対称性!

こうして僕は、風景というジャンルを相対化することになりました。一つのジャンルの約束事や美学は、結局一般化された真実のように見える「偏見の集合体」でしかないのだという理解です。そしてその理解は必然的に自分の撮る風景写真そのものを相対化していきます。それはもしかすると最初は自分がこれまで築いた写真の知識や技法を混乱させるだけの経験になるかもしれませんが、最終的にはその混乱は大きな成果になって帰ってきます。破壊のあとにしか創造が生まれないというならば、まず壊すべきなのは自分だと思うんです。

そういう経験を、できるだけ多くの人にしてほしいなと思っています。というのは、そういうジャンルのボーダーを軽々と超えてきた写真家たちが多くなれば、写真という世界を分断している"お約束"を破壊し、相互にリスペクトを持つ状況を作れるんではないかと考えているからです。

数年前、初めてカメラを手にした時、目の前に広がる世界の多様性に驚きました。カメラのファインダーを通したとき、世界は多層化され、それを切り取ることの面白さに夢中になったのです。それは多分、僕が文学というとても古いジャンルの研究をやっていた反動かもしれません。学会的お約束と大学的な権威性に満ちた世界からの軽やかな跳躍、と思いました。

ですが数年後、僕はまたがんじがらめの状況に陥ります。それは多少は名前を知られたこととも関係あるのかもしれませんが、それ以上に、この写真という自由極まりないと思っていた世界もまた、巨大な「お約束」に縛られているということを知ったからです。美しさの解釈は多様であると思っていた場所は、意外と偏狭な排外主義や優越ゲームが入り込む世界でもありました。これは仕方がないのかもしれません、「美」を扱う限り、「その美」と「あの美」との二項対立に視野が限定されてしまいがちなのかもしれません。

そのような二項対立自体が無効であるということを僕自身が知ることになったきっかけが人物撮影でした。それは上にも書いたように、風景のロジックで最高だった光も構図も、人物撮影にはおいてはまったく役に立たないという経験をしたからです。自分の持っている価値や美的感覚は、完全に相対化されました。そして、また写真が楽しくなりました。

というわけで、ぜひ多くの人にも「違う光と闇」を見てほしいと思ったわけです。あ、次の仕事だ。いかなきゃ。ではまた。

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