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写真と文学 第八回 「不在の中心が生み出す物語」

 本屋で『桐島、部活やめるってよ』というタイトルを見た瞬間、思わず手に取った。あまりにも斬新なタイトルの作品が、どんな文章で始まるのかを確認しないではいられなかったのだ。1ページ目を開いたとき、タイトルに引かれた自分の直感が、予想よりはるかに鋭い形で具現化しているのに驚愕した。「え、ガチで?」という冒頭の1行。震えが来たとはこのことだった。それに続く言葉のすべてが、新しい時代の声と抑揚と響きを伴って、ページを所狭しと飛び回っていた。小説の中で印象的に使われている比喩を引くなら、それは新しい「ひかり」だったように思う。

 文学は、常に古い文体を破壊することで新しい世界を切り開いてきた。20世紀中頃に発表された『ライ麦畑でつかまえて』は、出だしで19世紀の文学を支配したイギリス作家のチャールズ・ディケンズをコケにすることで、新世代の言葉を獲得した。19世紀のマーク・トウェインは、18世紀から引き継いだ上品すぎて硬直しかかっていたアメリカ文学に、黒人たちの口語のリズムを取り入れることで、再び命を与えた。すべての文学は、前世代に作られた権威のクリシェを破壊して新たな生命を得る。『桐島、部活やめるってよ』の中で試みられているのは、現代の高校生たちの生と性に相応しい「声」を与えることで、カビ臭い紙の芸術に一瞬だけでも輝く「ひかり」を与えることだった。その試みは、作者の朝井リョウ自身が執筆当時に学生であったという強烈なリアリティーによって成功している。物語の最後の最後、高校のスクールカースト「最上位」の少年は、スクールカースト「最下位」の少年が落とした、カメラのレンズカバーを返す瞬間をこう語る。

「ひかりが振り返って、俺を照らした。」
―朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』集英社、2012年、P.208

 その表現の繊細な美しさに、私はひどく心を打たれた。光の方向が計算されつくした半逆光の人物写真が頭の中で閃光のように弾ける。高校で最上位のおしゃれで勉強もスポーツもできる選ばれし高校生は、教室の隅っこで3年間ひたすら映画撮影に打ち込んできた少年に宿る「ひかり」に圧倒される。常に目をそむけてきた彼の内側の空虚が、その瞬間、黒い影のように彼の魂にずっと傷跡を残して来たことを知る。何のことはない。上も下も、17歳という特別な瞬間にいる子どもたちは、皆それぞれの不安と痛みを抱えている。過剰に内面化されたスクールカーストに敏感な世代の少年少女たちの微細な心の動きが、大人の脳内辞典には登録されていない「ガチで?」のような彼らの体感リズムを投影した言葉とともに語られる。

「十七歳の俺達は思ったことをそのまま言葉にする。そのとき思ったことを、そのまま大きな声で叫ぶ。空を殴るように飛び跳ね、町を切り裂くように走りまわる。」
―朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』集英社、2012年、P.13

 所狭しと縦横無尽に紙の上を走り回るその言葉たちが喚起する光景は、まさに最高のスナップ写真だ。一瞬一瞬の光景が放つ美しい「ひかり」を切り取ろうと試みるこの作品は、その何処かに、誰もが自分の過去の一部を見出すような経験を、光と闇を散りばめるように描き出す。

 さて、この作品の根源のところを話すのを忘れていた。そう「桐島」だ。この小説は「桐島」と呼ばれる少年が、部活をやめることから物語がスタートする。しかし驚くべきことに、桐島は最初から最後まで一度も物語内に登場しない。小説は全体として連作短編のような形を取っていて、各々の章は別の高校生たちが語る形式になっているのだが、どの章でもごくわずかに桐島の名前と、「部活やめるらしい」という又聞きの情報が伝えられるだけで、彼がどういう人物なのかは少ししか語られない。ほとんどセリフも見た目も与えられない「主人公」の不在こそが、この物語の特異な美しさを維持する中心を果たしている。これは文学や哲学において「不在の中心」という概念として定義されているものだ。

 何か難しいことを言っているように見えるが、実際にはこの世界の物事の多くは「不在」を中心に置いて回っていることが多い。例えば宗教がそうだ。何千年も前に発明された宗教というシステムは、「神」のような表に出てこない巨大な存在を中心に据えて、そこからの神託なり教義なりを受け取った弟子たちが、一宗教としての体裁を「物語」として整える。宗教がこの世界の持てる最大の「物語」形式なのだとすると、その中心の大半は、誰も存在を見たことがない「神」によって律されている。宗教的支配の世俗的な具体化である18世紀頃までの「君主制」による政治支配は、支配者たる王や皇帝の姿は民衆からは常に見えない存在として政治を支配してきた。19世紀になって民主主義が勃興すると、一見こうした巨大な「不在の中心」は存在し得なくなったように見えるが、現代においては例えば文学の中での1つの形式として残ることになった。そして文学研究から写真にスライドした私を最初に引きつけたのが、写真が本来的に抱える「不在の中心」だ。そう、写真こそ現代のアートにおける「不在の中心」のシステムで動いている最たるものの1つ。ここにおける「中心」とは、あなたであり私。シャッターを切る存在に他ならない。

 写真というのは面白いメディアだ。それを表現する「私」は、基本的にはそのフレームから排除される。自撮りが流行る昨今ではそのような側面が薄れてきたのだが、それでも多くの写真から「私」は排除されている。それは写真という機械が、常に撮り手を背後に置くことで撮影されるという原理的な構造を持っているからだ。私小説という言葉があるように、文学は「私」が主役に成り得る芸術様式だ。絵画では「セルフポートレート」が習作段階から繰り返し取り組まれるジャンルとして成立している。音楽はそもそもが、自らの強烈な想いを叩きつけやすい私的な芸術形式だ。写真は、今でこそセルフィが一般的にも撮影されるようになったが、その歴史的な成立の経緯を考えれば、「私が私を撮る」という行為は21世紀に入るまでは限定的な表現でしかなかった。にもかかわらず、写真もまた「私」が撮らないでは芸術たり得ない。つまり、写真は、「私」が撮ることで常に「私」が排除されるという相反を内側に抱えた芸術であるということだ。「私」こそが写真における「不在の中心」を形成しているのだ。

 写真という芸術の抱えるこの「相反」こそが、「事実の記録」であると同時に「アートの表現」でもあるという二面性を写真に与えている。「私の物語」ではないからこそ、写真は「事実」を写し出す記録になり得るし、でもそれを撮ったのは他ならぬ「私」であるという事実が、その写真に常に「私」の存在をちらつかせる。「桐島」の存在が小説の中で常に皆から意識されていたように。1枚の写真から常に排除されている「私」の存在。しかし、その写真に写るのはまぎれもなく「私」が捉えた「ひかり」だ。その「ひかり」に照らされて「私の物語」が、あるいは「あなたの物語」が浮かび上がる。それが、写真がこの世界で最も身近な芸術の1つとして我々に寄り添う原動力になっているのだ。


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