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#485 没原供養

昨日、『ahead』2024年1月号に掲載された鼎談記事のリンクを張りました。あれとは別に、モータージャーナリズムをテーマにした原稿を一本書いたのですが、その初稿はボツになり、本誌には異なる内容のものが掲載されています。(ウェブでは読めません)

素直で聞き分けがよく、常に周囲の顔色を伺って、決して波風を立てないことをモットーにしているため、編集長の「いまいち」という評価に対して、「おっしゃる通りでございます」と従ったものの、おまけとして、ここに放出しておきます。

 おそらく、気がついていない人がいる。ちょうど一年前、本誌のタイトルは『ahead』から『ahead OVER50』になり、以来、そのサブキャッチに「クルマやバイクに情熱を傾けてきた50歳以上の人たちへ」と掲げている。表紙を確認してみてほしい。エンジンのパワーはあればあるほど正しく、コーナーを「攻める」と言ってしまう世代がど真ん中だ。

 その世代からすれば、日本のバイク界を取り巻く近年の状況は、見ていられないかもしれない。ニューモデルが毎週毎月のように発表され、雑誌は電話帳のように(この例えがもはや通じない)分厚く、モータースポーツでは世界中のあらゆるフィールドで勝ち続け、レーシングライダーがCMやファッション誌に登場することが珍しくなかった時代。それをリアルに体感してきた世代である。

 今の新車を見渡しても心底欲しいと思えるバイクはなく、あっても高く、それでも手に入れようと決心すれば納期未定、受注停止と言われるばかり。雑誌やネットを見れば、本名じゃないどころか、ヘルメットで顔を隠した正体不明の何者かが何事かを語り、レースではかつての隆盛が嘘のように存在感がない。

 だからといって、いったい日本はいつの間にこんなことになったのか……と、ため息をついていても仕方がないし、「あの頃は」と語り合える同類が相憐れむために本誌が存在しているわけでもない。それでも確かに、バイクを表現する本が勢いを失っているという事実はある。ただしそれは、新車のラインナップが少ないからでも、バイクがつまらないからでもなく、ほとんどが作り手の問題だ。

 日本でバイク雑誌がいつ作られるようになったのか。それは、バイクが実用の道具から競争の、あるいは趣味の対象になって、しばらく経ってからのことだ。速さを競い、遊びで乗る人が出てきても、すぐに雑誌は成立しない。限られたわずかな層のための嗜好品だったからだが、ほどなくその情報を求める人が増え、なにかの片隅に掲載されたものがやがて単独の企画となり、徐々に裾野が拡大。その広まりが文化らしきものの下地を作り始めるのだ。

 また少し年月が経ち、うまくすると書籍が出版されるようになる。その気運があちらこちらで高まり、いよいよひとつのジャンルとして定着する。書籍とは、広告の出稿がなくとも、きちんとビジネスになることだ。それがあらゆる趣味世界の浸透に言えることであり、本の世界を基準にすれば、書籍が当たり前に流通することが、文化醸成の分岐点と言っていい。

 70年代に雑誌の創刊が相次ぎ、80年代に多くの書籍が送り出されたバイク界がそうだった。片岡義男、三好礼子、戸井十月……といった先人が肌で感じた風が言葉となり、文字になって紙の上でいきいきと踊る様を、僕らは自分事にように置き換え、限りなく同じ世界の中に身を浸すことができていた。
 
 彼らは皆、ずば抜けた表現者だったが、今それを継承する者はいない。あの頃の熱量がいつの間にか分断されたまま、時間だけが経過した。誰がそうしたのか。上の世代から与えてもらったものの中で、のほほんと過ごしてきた僕らOVER50である。

 蒔かれた種が芽吹き、花が咲いて、しぼむ。この循環が自然であるはずなのに、僕らの多くは楽しむばかりで、次の種をまくことを忘れていた。すっかり痩せた土地を前にして、みずみずしさを求めても始まらない。

 果たしてこれからなにができるのか。せめて若い芽を摘まないことだ。その芽は、自分の土地とは無関係に生えてきたのだから、勝手なことをしてはいけない。よかれと思っても、水や肥料を与えようとしてはいけない。やるべきことは、ひとつ。口も手も出さず、ただ黙々と自分で自分の足元を耕し直すしかない。

 なにかを表現するのは、とても不自由なことだ。美しい風景を目にした時の高揚を、どれほどドラマチックに描こうとも、その心根を100%再現することはできない。言葉や文字になった瞬間、どうやっても劣化は避けられず、他者に届いた時にはそれがさらに進む。ただし、劣化してなお、誰かの心を揺さぶる力を持つ者がいる。劣化してなお、凡人の遥か上に留まっていられる者がいる。物を書き、文化の一端を担ってきた人は例外なくそうであり、今、ライターやジャーナリストを名乗る僕らもそうでなくてはいけない。

 自分が見聞きした事象を、他者の中でどれくらい生き返らせることができるか。解像度の落ちた情報を、コピーするように流していては、すべてが劣化していくばかりである。

未発表原稿



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