見出し画像

文化の発展と支援に関する覚書

※以下の文章は構成や結論を熟考するよりも、まず思いついたことをとにかく文字に残していおいたものとして、若干の強引さや主張の曖昧さ、論拠の乏しさなどがあるという大前提で流し読み程度にご覧いただけると幸いです・・・!

まず、文化がなんなのかということに関しては答えがないだろうからここでは省くとして、個人的な意見としては、文化というのものは誰か(もしくはいずれかの団体)が作るのではなく、そこに生まれるものだと思う。文化を作ろうとして文化が形成されるというよりは、あらゆる個の集合体としての空気感があるとき文化として認められる。それは、現在進行形というより過去形であることが多い気がする。少なくとも未来形ではない。

だから、文化を作るというよりは、文化が生まれる状態を維持し続けることが現在進行形で自分たちにできることなのだと思う。言うまでもないが『culture』の語源は『cultivate(耕す)』である。ただただ次の土壌を耕すことが私たちにできる唯一のことなのではないだろうか。

そんな中で、実力のあるもの(お金を稼いでいるもの)に、また、個人ではなくその上にある団体に対して支援をするという話があった。文化を維持するために、金銭的支援をするというのは当然素晴らしいことなのだが、誰に対してどのような基準で支援をするのか、に関してはもう少し検討の余地があるように感じた。

というのも、売れていることが文化として優れている、つまり評価に値するかというと必ずしもそうではない。先にも述べたが、文化というものは徐々に形成されてゆくものであって、文化としての輪郭を現し始める頃には、その中心にあるような思想や運動・芸術というのはある程度完成されつつある。

その前準備として、文化の芽になる可能性があるところを(育つ可能性を見込んで)耕しておくことこそが文化の発展に寄与するはずなのである。カフカもシューベルトも宮沢賢治も、生前には全く売れていないながらも、それに続くアーティストの登場とともに新しい文化が生まれ育っていったわけだ。

そもそも、売れている、商業的に成功しているという資本主義的な判断基準と、文化として優れている、文化として継承しなければならないという判断基準とはおそらく相当異なっているのであって、商業的な成功を差し置いた上で、文化として維持しなければならない、育てなければならないものを見出すことが重要になる。

そこには、絶対的かつ定量的な判断軸は存在しない。言ってしまえば、勘というかセンスというものなのかもしれない。それは、たとえばギャラリーが名もなきアーティストをフックアップしたり、フェスの挑戦枠に無料で若手バンドが登場するようなことにも近い。そこには判断する人がいて、リスクを背負った状態で主観で持って、フックアップをするのである。もちろん、全てが成功するとは限らない。それは、いくら耕しても全ての畑で芽が出るとは限らないことと同じである。もう一度言う。判断において、主観は欠かせない。

もう一つ、個人ではなく団体への支援という話があるが、これもやはり資本主義的な構造を前提にした合理的なやり方であって、文化の醸成とは全く異なるベクトルの判断であるように思う。文化というのは個の集合体として結果的かつ偶発的に生まれるものであって、最初から経済的な成功を前提に合理的な支援をしたところで文化が生まれるとは限らないからである。

人類堆肥化計画』(著者:東千茅)という本で「堆肥づくりの主語は、いつも複数形でしかありえない」という表現が出てくる。この本は資本主義的な「清貧の思想」から脱却し、生命に育まれ、生命を育むものとして人々が「堆肥化」すべきだという話なのだが、まさにこの資本主義的価値観からの脱却のためには、『私たち』が個を維持しながらも依存し合うような関係が必要だと感じる。それは、原研哉さんが一月にツイッターでつぶやいていた下記のような内容ともリンクしてくる。この概念こそが文化というものに非常に近い気がする。

「私」というのは生の連続の中で、一個体/一世代ずつに発生するもので、世代をこえて「私」を受け継ぐことはできない。(中略)「私」はそれを承知していて、「私」の消失を死などという。生は「私」つまり一個体/一世代の消滅とは関係なく、連綿と系をなして連続していく存在である。これを「私たち」と呼ぶなら「私たち」に死はない。「私」たちは、もちろん個々に死んでいくが。(中略)ヒトは今、世代を超えた想像力、つまり「私」たちを超えて「私たち」を想像する能力が試されているのだ。「私」たちが「私たち」に到達するには、ミレニアルも、Zも、団塊もない。老いも、若さも、冒険心も、臆病も、自閉も、格差も、美意識も、イノベーションもない。希望を抱くなら「私」たちは「私たち」という自己認識へと進化するしかない。(https://twitter.com/haraken_tokyo/status/1348881691356532736)

いい加減、話がどんどんと脱線してしまうので、この辺りで擱筆しようと思うが、最後に紹介した『人類堆肥化計画』という本に出てくる『土の絶対性』について紹介しておきたい。私たちが安心して「堕落」できるのは、あらゆる価値を否定してもそこに依って立つ他ない絶対的な「グラウンド」としての土があるからだというのだ(ちなみに「堕」という漢字も土に支えられている!)。

つまりは、資本主義的ではない判断軸で持って、個が依存しあえるような絶対的安全性を国が担保すること。それこそが、文化の醸成のために少なくとも私たちができることなのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?