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もう引き返せない未来と、帰る場所|「哀しい予感」を読んで

完全なるジャケ買い。表紙に惹かれて、古本屋で買ったのがこの吉本ばななの「哀しい予感」だった。

この本に関しては、何を書いてもネタバレになってしまうし、できるだけネタバレはしないままに、最初は少し混乱するくらいで読み進めたほうが絶対に楽しいから、ここではあえて具体的なストーリーとかには一切触れず、思いついたこと、気になった台詞だけをピックアップしておく。

19の私の、初夏の物語である。

とにかく、完璧すぎる構成だ。過去と現在を往来しつつ、一瞬困惑もするが、最後に向かってこれしかないというほど緻密なストーリーが編まれていくような感覚。

私はもう、戻れない。おばとの日々の、いちばん最初の、あのなつかしい雨の夜にすら戻ることができないのだ。

冒頭でいきなりそう哀しい断定がなされてしまう。それはつまり、もう予感後の未来における言葉であって、その言葉の意味は最後にわかるのだ。

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さて、タイトルにある通り、この物語の大きな主題は「予感」。予感といえば、普通は「イヤな」とか「良い」とかがつくところに「哀しい」予感。哀しいって、そんな具体的な感情、予感できることなのか、なんて思ってしまったけれど、読んでいくとたしかに哀しさって予感できてしまうのだ。

そして、その予感は不幸にも当たってしまう。でも、この物語に出てくる予感は決してイヤなものではない。ただ、哀しいものである。

抽象的に、この物語の自分なりのキーワードを挙げるとすれば「帰る場所」と「忘れること」だった。

太宰治の「人間失格」にこんな一節がある。

三昼夜、自分は死んだようになっていたそうです。医者は過失と見なして、警察にとどけるのを猶予してくれたそうです。覚醒しかけて、一ばんさきに呟いたうわごとは、うちへ帰る、という言葉だったそうです。うちとは、どこの事を差して言ったのか、当の自分にも、よくわかりませんが、とにかく、そう言って、ひどく泣いたそうです。

「帰る場所」は必ずしも、自分の家とは限らない。反対にいえば、それは別の場所に、あるのかもしれない。自分が知らないだけで、別の場所こそが帰る場所なのかもしれないし、でも、それは一生出会わない場合もあるのだろう。

ほんとうに、家出とは、帰るところのある人がするものなのだ

本書では、そう途中で書いておきながら、クライマックスで、

そして、家へ帰るのだ。

と締めている。そう、主人公は帰る場所を見つけるのだ。しかし、そこには、哀しい過去。それを知ってしまった今はもう、知らなかった頃には戻れない。それこそが哀しい予感である。

物語自体、ハッピーエンドにも見えるのだが、そこには間違いなく、あらゆる人間のあらゆる喪失があり、それを乗り越えたからこその幕開けがある。それは総じて良いことには違いないのだけれど、だからこそ、「哀しい予感」だったのだと思う。しかもそれは、誰か一人のものではない。登場する全員が、おそらく同じ時に全く別々の「哀しい予感」を予想し、それらは全て現実のものとなる。

だけど、それは全てなるべくして起きている現実で、だから、イヤなものでもなければ「悲しい」ものでもない。そのあたりの言葉の選び方もさすがすぎる。

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もう一つの「忘れること」について言えば、予感ができてしまうほど敏感な主人公でも、もう忘れている感覚があって、それによって人はやはり救われている部分もあるのだと思った。

物語を読んでいて、なぜか写真家・奥山由之くんのいつかの展示のこんなセリフを思い出した。

"はじめて"は、みな平等に一度しか訪れません。

それは、何かに出会ってしまえば、もうその時の感覚は絶対に取り戻せないもので、それよりも以前の感覚は忘れてしまうということでもある。それはまるで、コロナによって大きく変わってしまった今の世の中にも当てはまる。

でも、忘れられるからこそ、幸せなこともある、というのが本書を読んでいて感じたこと。それを思い出した時、それに気がついてしまった時、場合によって人は哀しくもなる。だから、予感はいつも恐ろしい。

もちろん、ものごとは明るければいいというものではないけれど、その光景はあまりにもありえなそうにまぶしすぎて、何だか祈りのようだった。

そういえば、最後に、そんなセリフがあった。だから人は祈るのだ。

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ほんとうに、ただのメモのような感想文になってしまったけれど、今日はあえて、これでいい気がする。もし興味がある方は是非(ちなみに僕が読んだのは古本なのでもう売っていないハードカバーのverであった)。



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