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「にげること」について(全文公開)

2020年の1月に「にげる」ことをテーマに文章を書き、デザイナーの檜山ちゃん、ボードゲームクリエイターの山本くんとともに、この文章を使った人生ゲームを作りました。以前この記事で書いたものだけれど、このプロダクトも発売から1年が経つので(正確にはまだまだ先なのだけれど文章は1月に書き終わっていたので)、全文を公開しておこうかと思います。

新型コロナが猛威をふるい始めるギリギリ手前の1年前に書いたものだけれど、今でもそこそこ読み直すと参考になる部分もあるかもしれないなあなどと思ったので、そのまま文章だけを掲載しますが、一部書籍にする前の校正が反映されていない部分が多々あるかもしれないので、そのあたりはご容赦いただけると幸いです。

もし、プロダクト自体が気になるよという方はおそらくまだ少しだけ青山ブックセンターの入り口近くで販売してくださっていると思うので、よければ足を運んでみてください。SOLD OUT表示だけど、概要はここにあるので是非。



「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。」(悦ばしき知識/フリードリヒ・ニーチェ)


破壊と創造

ついにこの春で東急東横店が営業を終了し、順次解体される。向こう10年の渋谷駅再開発の第二章がいよいよ幕開けしたわけで、坂倉準三によるモダン建築の代表作・南館もその例外ではない。気がつけばこの一年でたくさんのビルが誕生し、知らない通路がたくさんできた。それらは張り巡らされた配管のように街を蛇行し、顔のない人々を溜め込み、吐き出し続けている。

これがほんとうに未来ための再開発なのですか。ぼくは渋谷駅再開発の経緯も事情も知らない。だからこそ申し上げている。ぼくが渋谷区民だった10年前には、こんな違和感は抱かなかった。そこにはまだ希望があった。たった10年。10年で街が変わってしまった。「破壊と創造」。この街ではそれとはなにか根本的に違うことが行われている気がしてならない。息が足りない。何故だろう。

もちろん、新陳代謝は必要である。100年変わらない街が正しいわけはないし、時代に合わせて街もインフラも当然変わっていくべきだ。昭和のメタボリズム思想だけを盲信する気もないし、拘る全員を満足させる再開発など不可能だということも諒解している。だけど、構造だけが先行して、そこに諧謔のない街ができるのは間違っていると思う。都市はもっとセクシーであるべきだ。これは一体誰のための再開発なのか。都民か。統計学的なペルソナに心はない。そこには誰もいないよ。

ぼくが好きな古本屋を出て、駅の方へ歩いていると、「渋谷中央街」なるピカピカのアーケードがあった。土日でさえ閑散としているこの場所が渋谷の中央か。どうすればここが賑わうのかと問えば、きっとこう答えるだろう。「古びた商店街を綺麗にして、さらに奥にもっと大きな商業施設を作ります」。中身のない箱を大事に大事に、いつまでも泥で塗り固めていくだけの未来がそこに見えてしまう。寸毫の隙もない。素性も知らない人が誰とも知らぬ多数の虚構に向かって作ったアン・サステナブルな街。地に足のついたぼくたちが生きていく場所はどこにあるのでしょうか。

アメリカとイラクの問題に、オーストラリアの火災、パンデミック。実感が湧かないニュースばかりで、2020年という年はすでに不穏な空気に包まれている。今年はきっと忍耐の年になる。だけど、ぼくはもう諦めてしまいそうである。ここにユートピアはない。今日は、渋谷から見る夕焼けが一段と綺麗だからすごく悔しい。


(追記:2020.01.31)
友人たち4人とご飯を食べた。そのうちの2人が作った期間限定のフードコートにて。お店なんだけれど、円卓を囲み、持ち寄ったお酒とおつまみ、それから即興で厨房にいた少年が作ってくれたまぜそばとラーメンを食べながら、友人の法人設立を祝った。翌日、そのうちの3人と同じホテルのレセプション会場で出くわした。さらに翌日、残る1人とまた別のイベント会場ですれ違った。示し合わせもしていないのに、この広い東京で遭遇するぼくたち。

かつてのようにインフラに縛られた都市設計はもう時代遅れとなった。電気は自宅で発電し、水だって水道管に縛られない次世代型のインフラ開発が進んでいる。これからの都市を形成するのは感情と精神的生活圏。目に見えないものが物理的な人々の距離を奪い去り、精神的な感情都市を形成するべきだと強く感じている。

(追記:2020.02.23)
「法人化された都市を人間のものに取り戻すべきだ」といったのは建築家・黒川紀章である(「都市デザイン」より)。建築関連でいえば、ぼく自身は何の教育も受けていないから下手なことは言えないけれど、ペーター・ツムトアという人の「空気感」がとても好きで、そこでは「良い建物の基準は心を動かすかどうかで、そこにあるすべてのものが作り出す空気感が所以である」というようなことが書かれてあった。そういった感情都市をぼくは求める。

(追記:2020.03.16)
そもそも差異を重ねて変わりゆく時間軸の中で、全てが完璧なものなど存在はしない。綺麗事だけで実現できる都市も存在しない。一定不協和を許容する必要があるし、むしろそれによって変化をし、進化していくことが都市の本来の姿であろう。そこには冷徹さも必要で、不完全を受け入れ、何かを切り捨てながら全体の調和のなかで生きてゆくこと。そのための余白を残しつつ、水のような流動性を保つこと。それがこれからの都市にも人生にも不可欠な観念ではないか。それとも、こんな言葉すら綺麗事なのだろうか。


都市の中の平衡感覚

時々、急に怖くなる。距離感覚がわからなくなる。地下鉄へ下るエスカレーターの壁が突然近付いてきたりして、眩暈がする。東京にいるとそんなことがよくある。「濃霧の中の方向感覚」ならぬ「都市の中の平衡感覚」というやつだろうか。それを失いそうになる。

一般的に世間が求めるのはバランスをとることより、壁にもたれかかることだと思う。自ずから平衡感覚を持たずとも、道標はそこら中に落ちてある。バランスをとる必要ない。目を閉じて壁伝いに歩けばいいのだから。それが高度経済成長後の日本で形作られた「生きやすさ」の一つの解だった。

だから、懊悩することよりもひとまず選ぶことを急かされる。SNSでの過剰なまでの対立も、政治によるアートへの闖入も、おまえはどっちだと言わんばかりに意見を押しつけてくる。どっちでもいいじゃないかと答えればまるで非国民のような扱いをされる。だけど、これは東京という街が悪いのではない。人々はみな加害者であり、被害者でもある。見えない形而上の構造のもとで、責任転嫁のパラドクスに陥っているだけ。モノも情報も豊かになり、人の心が貧しくなっただけのことだ。

森羅万象、わかりやすさと暫定解だけが求められる時代。何も考えなければ生きやすいこと限りなしなわけだが、目を凝らせば凝らすほど視界は不鮮明になる。こんな街で平気な顔をして生きていける人たちが堪らなく羨ましいと思う。みな無理をして生きているのかもしれない。それでも、彼らは強い。平気な顔をして、大衆の面前で道化のごとく振る舞えるわけだから。

とにかく美しくない時代だ。本屋へ行けば、暫定解が絶対解であるかのように見せてくる自己啓発本ばかりが棚を占有し、色気のないハッピーで空虚な言葉ばかりが視界に入ってくる。これは教育においても同じことで、方向感覚よりとにかく進行方向ばかりを教え込まれる。

そもそも、世の中の全てがハッピーエンドなわけがない。だけれど、人々はどこか他人行儀の態度を取ってしまう。誰かが得をすれば、他方で損をする者が居る。綺麗事ばかりをパッキングした現行の教育ではそんなことも教えてくれないわけである。だから、知らないことが起こった時に、わたしは違うという勘違いが起こる。全ては向こう側の話だと思ってしまう。「正常化の偏見」というやつだ。べつにパシミストになれとかデガタンスに傾倒しろということじゃない。ただ、RPGのごとく遠い目で眺めている情景がほんとうはこちら側の現実かもしれなくて、自分が立っているのがつねにその真ん中であるということをまず理解すべきはずなのだ。そんな時、すぐに解を出さずとも、どちらにも転ぶでもない平衡感覚を保っていられるような忍耐力だって必要なはずだ。

(追記:2020.02.16)
わからないことがわかるようになるのは大切なことだけれど、そもそもわからないことを知ること自体がなによりも大切なことだ。時には、わからないことがわからないままのことだってある。答えのない問いだって山ほどある。だから、わからないことを知ることにこそ、教育の価値があると思う。詳しくは書かないが、この教育における逆説的な価値はもっともっと普及すべきだ。


ユートピア再考

遡れば、生きづらさというものは前から変わらずに言われてきたことだ。生きやすい社会を目指すということは、その対極にある生きづらい人がどうやってもなくならないわけで、これは幸福が不幸からの危機回避であるという幸福論的な話にもつながってくるわけだし、終末論だって黙示録の時代から変わらずに存在していて、実際に世界が終わってしまえば、そこに我々は存在しないのだから、エピクロスの考える死と同様に世界の終末は我々とは無関係な存在であると言えるのじゃないだろうか。

山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

有名な書き出しだからご存知の方も多いかもしれないが、夏目漱石による「草枕」の冒頭文である。1906年(明治39年)に発表された文章で、生きづらさがいつの時代にも変わらずに存在し続けていることが手に取るようにわかる。「おくのほそ道」を上梓した松尾芭蕉だって、隠者という東洋ならではの思想だって、現世からの逃避行という点では、これに等しい思想を持っていたのではないだろうか。文章はこう続く。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。

いくらこの世が生きづらくても、生きている限りそれは延々に続く。だからこそ、絵画や歌があるというのである。それらは現実を忘れ、ある種のユートピアを断片的に感じられるような存在として非常に尊いもので、人に因ってはそれは酒の類でもスポーツの類でも構わないのかもしれない。兎も角、生きづらい世の中から一時的に目を背けるための拠り所としてこうした余暇はいつの時代にも存在していて、娯楽として発展を続けてきたのだろう。

ところで、唐突にユートピアという言葉を使ったがそれは「どこにもない」ということを意味する言葉で、思想家・トマス・モアによる造語とされている。1516年に彼が出版した「ユートピア」という書物では、当時の権威主義的なヨーロッパの王制に対する提言を込めて、彼自身が考える理想国家のあり方を「ユートピア島」という架空の国の説明によって紹介している。ここに出てくる人民の盲目さというか若干狂気的な国家に対する盲信っぷりはさながら宗教のようで恐怖さえ覚えるのだが、文中に登場する語り手によれば、ユートピアは一言でこのように表現されている。

すくない法律で万事が旨く円滑に運んでいる、したがって徳というものが非常に重んじられている国、しかもすべてのものが共有であるからあらゆる人が皆、あらゆる物を豊富に持っている国

最大の特徴は全てがオープンな状態で、懲罰による取り締まりではなく、人々の結びつきという性善説によって人々が守られているという点だろう。これは近年勃興しつつあるテクノロジーが個人を監視する「信用経済」という概念にも非常に近い。

ここには酒場も居酒屋も女郎屋もない。悪徳にふける機会もなければ、いかがわしい潜伏場所も、陰謀と不法集会の隠家もないのである。あらゆるものが白日の下にあり、衆人環視の下に行われるのである。人々はどうしても日常の仕事に精を出さざるをえないし、健康な明るい娯楽をもって心身を慰めざるをえないのである。

ユートピアの全貌は地形から法律、日常、人間関係に至るまで事細かに記載されているので、詳しくは本書を読んでほしいが、ユートピアはあくまで現存する世界を基軸に据えた、実現してはならない世界という気がしてならない。そこに待ち受けるのは自由ではなく束縛で、ユートピアなんてものは現世が少しでも生きやすくなるために作り出された古代人によるアンチテーゼなのかもしれない。生きやすさだけを追求した世界こそ、きっとディストピアであるのだ。


(2020.01.22追記)
数年前からVaporwaveというジャンルが流行っている。そこにあるのはユートピアの憧れというよりも、ユートピアの幻影の中に生きているという(希望的)妄想だという気がする。加速主義によって資本主義の限界を突破しようという時代の流れの中で、やっぱりそんなことは不可能だったという諦念にかられ、辿り着いた浄土という感じがする。やはり、ユートピアが現実を追い越してしまってはいけない気がする。しかし、日常とバーチャルが交錯して逆転し、バブル期の人々が憧れた現代というユートピアに生きながら、今の人々は届かない過去を夢見ている。これは静かな革命の浸潤なのかもしれない(注:浸潤とはガンなどが組織に広がっていく様を表すネガティブ要素の強い言葉なのだけれど、ぼくはこの無意識に広がる概念が好きなので、ここではあえて浸潤と言いたい)。


仕組まれた社会

この世はあらゆることが仕組まれた社会である。それは意図的な部分と偶発的に生まれた部分の両方が混ざり合った、非常に複雑な構造社会だ。高度経済成長以後にはとくに、あらゆるものごとが効率化されたことで「マジョリティ=正解」という概念が固定化された。「みんなが使っているものは良いものだ」「誰もがこうするから正しいのだろう」という具合に、自ら考え、行動する機会が極端に減った。与えられたものに従い、その通りに動いていれば万事快調。もっとも“普通”なやり方こそ、手厚く保障されることになった。

少なくとも今の日本では教科書を暗記することが教育とされ、その積み重ねによる採点で、進路が決まっていく。思考回路が発達途上にある小学生時代には倫理や道徳の授業も数多くあるが、それでもやはり採点ポイントは暗記によるテストの採点。いかに多くの漢字を覚え、間違わずに計算ができ、休むことなく体育に参加するような小学生が模範的な優等生とされる。

だから、マニュアルにあること以外は基本的に良くないことだとされる。危険なことなどもってのほか。小さい頃はわからずに何でもかんでも手を出していた子供たちも、周囲の大人のお咎めによって、だんだんと要領を学び、“大人”しくなっていく。道が舗装されていくということは、それ以外の道がなくなることでもある。

本来、気になるものに手を差し出すという行為自体はとてもいいことである。自分の目で見て、手で触れて、それがどんなものかを知っていく。怪我をして、危険なことを学ぶ。しかし、危険回避ばかりが叫ばれる現代においては、してはいけないことだらけで、子どもたちはつねに守られている。1984年に発売されたアウトドアライターの芦澤一洋による「アーバン・アウトドア・ライフ」という本では、そんな戦後の時代をこう語っている。

原っぱを失ってしまったぼくたちは、ものに触れる楽しみ、そこから学ぶ多くのことどもを失ってしまった。

たしかに、作られた体験というか意図された物語を楽しむだけのRPG的な遊びが増えてしまったと思う。美術館では順序が決められていて、撮影していい作品は1つか2つに決まっている。同じような写真ばかりがSNSに投稿され、褒め合うという行為は冷静に考えて楽しいのだろうか。ドイツの哲学者・エーリッヒ・フロムの代表作「自由からの逃走」には、こう書かれてある。

どのような創造的思考も、感情と密接に結びあっていることは疑う余地がないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。「感情的」とは、不健全で不均衡ということと同じになってしまった。(中略)その結果、映画や流行歌は、感情にうえた何百万という大衆を楽しませているような、安直でうわっつらな感傷性に陥っている。(中略)同じような歪みは感情や感動と同じく、独創的な思考にもおこる。教育のそもそもの発端から、独創的な思考は阻害され、既製品の思想がひとびとの頭にもたらさせる。

こうした体系化がもっとも痛々しい形で表出しているのが東京という都市なのかもしれない。既存の不動産概念に則って、地価の高い大都市中心部に縦積みの高層ビルを建て、大企業のテナントを誘致する。どこへいっても変わらないラインアップの商業施設の大行列に加わって、みな毎週末を過ごすのだ。伊丹十三は「ヨーロッパ退屈日記」で1970年代当時の東京について、「素朴な疑問」という見出しとともにこう語っている。

一体、東京はいつ頃から醜くなり始めたんだろう。江戸はどうだったんだろう。江戸の街は美しかったろうな、多分。第一全部日本建築だったんだもんね。建築の様式に統一があれば、街なんて美しくないわけがない。(中略)そもそも日本人というのは、美しくなけりゃ気が済まないという人種で、あったのか、なかったのか。どうして醜い要素ばかりがドンドン発展してしまうのか。日本では、人間の集まるところが必ず醜くなるのはどういうわけなのか。人々が寄ってたかって自然の美しさを台なしにしてしまうのは一体なぜだろう。

ぼくは別に自然懐古主義を唱えたいわけではない。ただ、人が集まる場所だからといって、何も考えずにレールに乗っかった開発ばかりしていては、若者の思考停止に拍車をかけるだけだと思うのだ。もはや何も考えなくても生きていける便利な街・東京。本物を失ったハリボテのこの街では、どんどんと思考力が奪われていく。これは、しかも、都会だから起きているというわけでもなさそうだ。たしかに自然は思い通りにならないし、地方には都会にはない“考える機会”も数多くあるかもしれない。だが、地方においてもこの「仕組まれた社会」は生まれつつある。そのスピードはむしろ都会よりも速い。その理由は単純に変化に慣れていないがために、仕組みを取り入れることへの盲目的な信頼が強いこと、そして、実際に仕組み化のスピードも成果が現れるまでのスパンも短いことがあげられる。いわば高度経済成長の焼き増しが繰り返される。

兎にも角にも、この「仕組み化された社会」では、大多数が安心できる一方で、標準化からはみ出してしまう少数が生きづらさを感じてしまう。それは東京という地域に限ってもそうだし、東京と地方というマクロな比較、もしくはとあるコミュニティ内というミクロな視点で見ても必ず起こる現象である。それ自体は社会というものの構造上どうしようもないものだが、そこで暮らす一部にとって「仕組み化」が生み出す生きづらさは相当なものだろうと思うのである。

(追記:2020.02.23)
想定外を除外するためのフォーマットを求める現代の科学、政治、教育に限界があることは自明である。(本来の意味とはズレてしまうという前提で)形而上的な部分まで想定できる、つまり想定外をゆるく認める水のようなあり方がそれらには求められるべきであろう。「ダイナミックこそ安定である」とエーリッヒ・フロムは考えたが、まさにその通り。つい先日、白髪一雄のダイナミックでありながら一瞬を捉えたかのような絵を見て、それを直感したところであった。


選択肢の多様性

必ずしも答えを出す二分的な思考に異を唱えてはみたが、一方で、選ぶことができない環境もまた異常である。選ぶかどうかよりも大切なのは、選択肢があること。選択肢の多様性は寛容さに直結する。


普通であることの異常性

年始に実家へ帰って本の整理をしていたのだけれど、少なくても2000冊くらいはあるのに、ラインアップが非常に浅い気がして衝撃を受けた。なんとなく「普通」なのである。そして「普通」とは何なのだろうかと、手を止めてしまった。

ぼくの基準にしたがってぼくが選んできた本が普通なのはぼくの視点でしかない。漫画しか読まない人からすれば、全く予想だにしないジャンルかもしれないし、そもそも本を読まない人からすれば、2000冊も買うだなんて狂っていると言われても仕方がない。普通ということについて考える上で、非常に良い手引きとして「くるい きちがい考」(なだいなだ)という本がある。

平均にひたって、自分には問題がないことにした人たちは、平均から逸脱したものを憎む。他人を画一化しようと努力する。自分のような人間にしようとする。自分のようでない人間に、いちじるしく不寛容だ。(中略)その人たちは、画一化されない人間をクルッテイルと見なす。ぼくとしては、そういう人々の多い社会を、なんとか、もう少し寛容な人間の多い社会にしたいとは思っているわけだよ。

普通か普通じゃないか、その判断基準はいつも主観的で相対的でしかないというわけだ。人間はそもそも自分本位な生き物である。だから、自分が一番馴染みのある慣習を基準に「普通」を認める。たとえば、日本では30歳までに結婚することが大体のところ「普通」である。最近は晩婚化が進んでいるとはいえ、40歳を前に独身だというのは非常に肩身が狭いとされる。さらに、その先には妊娠・出産・育児というお決まりのルートが待ち受ける。すでに仕組まれた社会がここに存在している。

もっとも怖いのは、この「普通」が主観的なものであることに気がつかない者だろう。たとえば30歳までに結婚し、妊娠・出産を経験した人にとって、結婚して子供をもうけない夫婦や事実婚のような概念が頭の中にない(補足しておくとこれは自らの体験談に基づいている)。人それぞれいろんな形があってしかるべきことを理解しつつも、この無意識レベルでの線引きが「普通」におけるもっとも無慈悲な差別・異常性であることは断言して差し障りがないはずだ。

世の中に「普通」は存在しない。それはいかにも中立的に思わせる表現にもかかわらず、著しく相対的な判断でしかなく、主体の経験・思想に依拠するところが多分にある。平均値が普通というのも違うと思う。平均値は平均でしかない。それは存在しない幻影に過ぎない。中央値の方がまだ少し信頼できるくらいだから「普通」というものは科学的に検証された実態のない中央値と言い換えることもできるだろう。

経済成長とともに、科学的合理的判断が大いに奨励され、真反対にある数値化できないもの、つまり普通ではないものはできるだけ排除しようということが暗黙のうちにおこなわれてきた。しかし、フランスの社会人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」という本の中で述べていたように、本来人間には、科学的ではないにもかかわらず、一定知的な構造のもとで理論だった分類が可能になる思考が備わっており、そこには科学同様の価値があるということを忘れてはならない。むしろ「野生の思考」の方が、必ずしも科学的なアプローチにとどまらず、一見無秩序に見える現実に対してもうまく対処が可能になるというのである。しかし、これを科学的視点だけによって「普通」を基準に考えていたのでは、なんら未来は見えてこない。

必要なのは何かを基準に体系的に考えられる能力ではなくて、あるものをどう使えるのか(レヴィ=ストロースのいうブリコラージュ)であろう。そもそも「普通」という言葉自体が異常性を包含する気がしてならない。ここに「普通」という言葉の両義的な矛盾を感ずるのである。


枠から外れること

「はじめては誰にでも平等にただ一度だけ訪れる」。写真家・奥山由之がいつかの写真展の冒頭でこのようなことを書いてあった。ハッとしてこれまで見過ごしてきた多分な「はじめて」に懺悔しつつ、人生でこれから訪れるであろう全ての「はじめて」に敬意を払いたい気分になった。

唐突だが、「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」を書いた思想家で批評家の浅田彰によれば、人々は大きく安住を好む「パラノ型」と新しい場所を求めて逃避行を続ける「スキゾ型」に分離できる。もちろん、新しいものが生まれるのは後者からだ。はじめてのものに出合い、対処し、慣れ、一般化してゆく。生物の進化にも全く同じことが当てはまる。短期的には短所でしかない“変異”が何万年という時を経て、ある種を絶滅から救ったりもする。「はじめて」を求めることは種族として、文化として当然のことなのだ。

虚偽の建物は崩壊する。けがをしないように、できるだけ遠く身を避けること、伝統のなかへ、疎遠の地へ、超自然のなかへ。

チューリッヒ・ダダの創設者、フーゴ・バルによる「時代からの逃走 ダダ創立者の日記」の一節だ。ダダイズムと言えばマルセル・デュシャンの「泉」があまりにも有名だが、人々の固定観念を著しく刺激し、強烈な違和感を持ってアートシーンに新たな幕を落とした張本人たちも、言ってしまえば、既存の枠から外れ、「はじめて」に未来を見出したのだった。ダダイズム自体が「既存観念の破壊」に主眼を置いていたことは言うまでもない。「はじめて」に臆すること勿れ。

ただ、それはあまりに積極的かつ少数派にしか当てはめられない理論であり、全ての逃走劇が能動的におこなわれてきたかと言えば、決してそんなこともない。というよりむしろ、ほとんどが受動的とは言えないまでも、擬能動的(なんて日本語はないかもしれないけれど)に選択された結果としての逃避行だと思うのだ。

しかも、これは視点の問題でもあって、一方を選べば、他方が選ばれない。選択することはつねに一方を選ぶことであり、他方を避けることになるだけのことである。罪悪感と背徳感。しかも、同じ選択であっても背景や思いは異なることもある。これがまた事態をややこしくする。自らを殺すことは社会に殺されること。寺山修司は「青少年のための自殺学入門」の中でそのように述べた。逃避自体はつねに相対的でしかなく、その主客を逆転すれば、いとも容易く受動能動は反転する。

選択を意図的に避けてその場にとどまったとしても、それは選択自体を回避していることに他ならない。時間軸に囲まれたこの世界で生きるということは全ての選択肢が意思と無意思の両義を孕んだ逃避でしかないのかもしれない。


(追記:2020.02.23)
前述の「自由からの逃走」にこんな話がある。

個人はちょうど積み木をもった子どものように、これらの断片をもってひとりぼっちにされている。しかしちがっているのは、子どもは家とはどんなものであるかを知っており、したがってかれが遊んでいる小さな断片にも家の諸部分をみつけだすことができるのに反し、大人はその断片を手にしながら、「全体」の意味がわからないのである。かれは途方にくれ、不安になり、その小さな無意味な断片を見つめつづけているだけである。

枠から外れること、自由になることは孤独になることであり、その性質がわからぬ人にとって社会とは昔から変わらず生きづらいものなのであろう。


(追記:2020.03.10)
芸術探検家として旅と芸術をテーマに活動する知人が、一文無しの世界旅行を通じて知ったことは「簡単に死ぬことすらできない」ということだったそうだ。今の世の中では、やはり枠(=構造)から外れることは容易ではない。ただ彼は続けて「無限に存在するあらゆる枠から、自分に合うものをどうやって選ぶかが大事だ」と話していた。


(追記:2020.03.15)
千葉雅也は「動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」のなかで、自然とつながる時代だからこその切断の必要性を説いている。上記「逃走論」などを読むと、一見人びとは次々と新しい場所を求めて移動を続けることが正しいようにも感じてしまうが、枠から外れることには、じつは必ずしも移動を伴うわけではなくて、たとえば子どもの「よそ見」のようなさりげない無意識の軽微な移動にこそ本質があるのかもしれない。好奇心はもちろんのこと、千葉が論じている“ポストポストモダン”においての「無関心」も、枠から外れる際には重要な概念であろう。


(追記:2020.03.24)
枠の外にあるもの、自分たちが生きているより高次元にあるものは普通見えない。そして、見えないから怖い。もしも、その片鱗を掴みたいのであれば、どうにかして次元を落とすしかない。ぼくたちはその影を見ることしかできないのである。では、どうやって次元を落とすのか。そのために科学があり、アートがあり、哲学があるのであろう。知性と感性があるのだ。


自然というものは人の手がつけられない、計画性・理性の外側にある世界のことを指すのであって、作られた自然など存在はしない。自然を生み出すとか、自然に着想を得るとかはまったくもって意味不明なのである。それらは擬自然でしかない。本来の自然は、ただ人々が介入しないところにだけ存在するものだ。

(追記:2020.02.23)
ただし、本物と贋物と擬物の全てがこの世には必要だ。擬はニュートラルな位置付けで、真贋をつなぎ合わせ、補足する効果もあるのかもしれない。


にげてなどいない

「今いる場所からにげることも選択肢だ」という自己啓発をよく見かける。勿論その通りだと思う。が、ほんとうにその選択肢がにげることを実現できているかどうかは一考を要する。

一般的に「にげる」と聞くと、なんらかの不幸を避けるために自己の意思のもとで行われるべき決断を指すと思われる。それは合目的的な移動とも言えるだろう。つまり、にげたと思っているようで、それは単なる移動に過ぎないのかもしれない。否、勿論、それもにげることに違いはない。ただ、逃避が移動である(言い換えれば同次元上での移動でしかない)以上は、また同じ不幸が訪れる可能性があるということを承知の上で飛び出したのかということである。

我々は生きている限り、環世界をループするだけである。もっとマクロに考えれば、生きることとは現地点からにげ続けることなのかもしれない。だから、理想を追い求めてにげ出すのだとしても、その先に待つのは現実であって、遅かれ早かれいつかはまたその場を飛び出す日がくるだろう。先に述べたようにユートピアは実現されては意味がないからである。人によってそのスピードは異なるから、生まれてから死ぬまで、このにげる感覚を持たないまま最期を迎える人もいるだろうし、一方で毎年毎年なんらかの生きづらさや気味の悪さにすぐ足を竦めてしまう人もいると思う。ただそれだけのことである。

現世においては、SNSという一見別世界のような空間があるから(事実全てが1と0からなる二進法の奇妙な世界なのだけれど)、いくつもアカウントを作っては、その線の上を気分に合わせて移動し続ける“アドレスホッパー”も数多くいる。だが、これだって変わらぬ現世という構造の収まりからは解き放たれることがないということを忘れてはいけない。むしろ、生きることは、にげ続けることに等しいわけである。

(追記:2020.02.23)
死というものは、いくら目の前でそれが起こったとて、そこには永遠の溝が存在していて、理解を妨げてしまう。戦後の日本では、水洗便所の発達とともに、死というものの存在が人々の生活から切り離されてしまった(と養老孟司が言っていた)。イヤなものは水に流してしまえ、というやつである。この距離は縮まるべきなのか、死は無関係に存在し続けるべきなのか、それはまだわからないな。

(追記:2020.03.18)
少し前にも書いたが、子どもがよそ見をしてしまうような意図せぬ移動は、合目的的な移動とは異なり、ここでいうにげることに当てはまるかといえばそうではない。にげるとは果たしてどのように、何処へ向かうことなのだろう。


知性なき感情時代

論理的な指標から、感情をベースにしたこれまでにはない価値基準が生まれることは相違ないが、注意したいのが「理性よりも感情が大事だ」ということではないということ。すなわち、感情を解放すること、その直感のままに生きることが必ずしも正しいとは言えないのである。そこでは、知性が前提となる。知性なき感情論は負のエントロピーを増大するだけである。

内田樹は2月1日のブログ(http://blog.tatsuru.com/2020/02/01_1152.html)で「桜を見る会」に触れ、最後にこのように締められるている。

この成功体験(注:首相が非合理的な理由を盾に責任を逃れること)が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。

ここで語れられる感情論はあくまで知性なき感情論の話であって、それは非常に由々しき事態と呼べるだろう。人々は知らず知らずのうちに知性を失い、自らを貧しくしている。そしてその流れはもう止まらないだろう。蜘蛛の巣に引っかかり、逃げようともがく小さな虫の如くである。


(追記:2020.03.30)
現代においては、日常を非日常だと見誤る節が強すぎるように感じる。今は緊急時だから、そんなことは言ってられない。こんな非常時に何を不謹慎な。昨今は将にそのような状況である。しかし、考えてもみれば人は皆遅かれ早かれ死ぬものである。災害とは日常の中にあるものである。それが急に現実味を増したとて、それは単なる現実でしかなくて、出来るだけ日常の延長を、ただ粛々と生きるしかないものを、なぜ人はあらゆる場面を非日常だと捉えていつもと違う態度をとるのだらう。無知のもとで人はかくも浅はかなものかとそこに対して絶望をしている。


無題1

仕事も住所も人間関係も、あらゆるものから解き放たれて身軽になる。すごく重たい本がデジタルになって、持ち運べるようになる。現代は「存在の耐えられない軽さ」で溢れている。



孤独のすすめ

東京ではイヤホンが欠かせない。多数の匿名に囲まれたはぼくは、いつも一人だ。勿論、これは望んでのことである。

日本人はさも流されやすい。ネガティブな情報にならなお扇動されやすく、他人と自己を切り離して選択することを放棄し、周囲に同調する。それこそ上で書いた画一性、普通という名の異常へとつながるのだが、これが理由だからといって別に孤独を推薦したいわけではない。

ぼく個人としては、孤独にこそ美があると信じている。集団にあるのは安心であって、美はもっと痛々しい、己との研磨の中でこそ生まれうるものだと思う。とくに、芸術においてこの傾向は甚だ顕著になる。ミニマリズムの巨匠でもある芸術家・李禹煥は自著「余白の芸術」で、日本の現代美術における内輪思考について「内輪同士のためには良い作品なのだろうが、その多くは外部性を持たない無気力な自慰行為に見えてならない」と述べている。集団に沸き起こるのが慰めだというのは、真にその通りである。

これは主観に過ぎないが、自らが追い求める真理(というほど高尚なものでないがムードというかモードというか)が世間一般の認知を得始めた時に、なんだか嫌な気分になる。偶発的に重なり合うムードを見つけた編集者がこれらをトレンドに昇華してしまうことで、パンデミックが起こる。そうなるともう手に負えない。だから、逃げるのである。ただ、キャズムを超えるあの感覚をいつまでも追い求めているだけなのかもしれない。「逃走論」におけるスキゾヘッズそのものである。


無題2

これまで目標達成のための手段でしかなかったものを目標とすることで、途中経路が全て白紙になる。そこで起こる全ての不調和を受け入れることで、予期せぬ結果へと到達するというのは、一般的にはおかしな話なのだけれど、旅行においてはこれが成り立つのだから、面白い産業だと思う。そして、この目的と手段の逆転劇は実は今後あらゆる分野において模倣が進むと捉えて相違ない。


無関係

自己と世界は全く分断されていて、重なり合うような“対幻想”が用意されていて、ひょっとすると究極的には同一なのかもしれない。つまり、ものごとを考えることは、関係性を考えることに他ならないのだと思う。そして、その関係性の先にあるのが「エロチシズム」という概念だと思う。バタイユは「エロチシズム」という本の中でそれを「非連続的な人間における非連続性の侵犯」というように説明している。それは正常な構造の破壊であり、新生命の構築であり、存在と無のどちらでもない禅的な中庸の提示でもある。

そんなエロチシズムな関係性を感じる最たるものが文学なわけで、一つの事例を示すとするならば、たとえば谷崎潤一郎なんかがわかりやすい。谷崎の著書に「春琴抄」という話があって、ストーリーは割愛するが、盲目の三味線奏者・春琴につかえる佐助との間柄を描いた作品で、以下のような記述が後半にある。

お師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた佐助はこの世に生れてから後にも先にもこの沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった

これぞまさしく耽溺の骨頂である。こちらも長くなるので内容は伏せるが、アンナ・カヴァンの「氷」における世界が凍ってしまう中で一人の少女を追い求めて破滅する王子や、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」で婚約中のロッテに恋い焦がれて破滅しゆくウェルテルも同様の関係性を生きている。というか、そんな話は世の中にごまんとあるのだが、誰もその関係性の重要性に気がつかないのは何故なのだろう。ぼくは自己と世界を断絶したところに存在する関係性(=エロチシズム)にこそ、これからの時代を生きるヒントが隠されているような気がしてならない。

(追記:2020.02.24)
自分と、自分が興味を寄せる対象。その関係性だけが世界だと言える。その外にあるものは自分の世界には存在しない無関係なもので、いくら世の中が戦争だの不景気だのパンデミックだので騒ごうがお構いなし。上述の小説に見られるような関係性は、小説とそれを読む読者にも見られるもので、読書とは一時的な関係性の逃避行とも言える気がする。うまく言えないが、関係性とにげることには大きな相関があると思う。



無題3

知らないことは、存在しないことに同義である。つまり、ほとんどのことをわたしたちは知らない。



アンチ・ミニマリスト

フィンランドにある建築家・アルヴァ・アアルトの自邸を訪れて感動した。それはヘルシンキの中心から少し離れた高級住宅街にひっそりと立つお家で、書斎からの眺めが最高なのはもちろんのこと、この家には“あらかた生活必需品の類が見られない”。いや、本当は生活必需品もたくさんあると思う。だけど、全てこだわり抜いて集めた逸品ばかりで、全て趣味の蒐集品のように見えたのだ。

生活に必要な最低限のものしか持たない「ミニマリスト」という言葉があるが、ぼくはそれが少し苦手である。妻と二人暮らしをしているぼくが持つ家具はベッドとテーブル、1つの棚のみ。先日の引っ越しでは2人合わせて1人分のダンボールすら使い切らなかった。そういうと「ミニマリストだ」と言われることも多いが、そんなことはない。持ってきたものと言えば、ガラスの工芸品や器、ポスター、書籍、布など、生活に必要のないものがほとんど。どちらかと言えば“無駄なもの”しか持ってこなかった。だから絶対にミニマリストではない。

お家を必要最低限のものだけに断捨離して暮らすのは、(ぼくの主観だと断った上で)“味気ない生活”でしかないと感じている。色のない生活。それが心地良いと感じる人もいるはずだから、もちろんミニマリスト自体を否定はしない。だけど、ぼくはそれだと生きていけない。ファッションには無駄と消費が必要だという話を書いたことがあるが、人間は無駄と消費のために生きている。熱量はそこにしか発生しない。その熱量・感情にこそ価値と可能性があるのではないだろうか。

反対に、いくら集めてもなんの感情も湧かないような味気のないコンテンツもたくさんある。そういう意味では、この世不必要な無駄に溢れている。無駄の選定力は今を生きていく上ではとても大事な概念であろう。必要もない情報が次から次へと流れ、耳に目に入って来る今生において、エネルギーが充満しすぎた空間で争いが起こることは必至だろう。

では、いっそのことなにもなくなってしまえば良いのだろうか。そもそもユートピアとは無何有郷。人びとは「なにもない」をもとめてにげるのではあるまいか。ここはなにもない場所だ、という場所があるのかと言えば、まずこの世には存在しないだろう。だが、それに近い感覚を味わえる場所で言えば、禅寺のような場所が挙げられるのかもしれない。つまり、心を無にできる場所である。建築家・西沢立衛と芸術家・内藤礼による瀬戸内の美術館「豊島美術館」もまさにそのような場所だ。あそこにはなにもない。正確に言えば「なにもない」だけがある。電波が届かないような場所もそれに近いかもしれない。

なにもないことを裏返せば「なんでもある」とも言える。先の例で挙げた禅寺は物理的な「なにもない」場所ではない。心遮るものがなにもないのであって、そこには無限の思考の余白が残されているということである。さらに突き詰めれば、実は、心の余白はどこにでもあって、人々はただ日常に溶け込んだ「なにもない」に気がつかないだけのことである。禅問答のようだが「なにもない」はどこにでもある。

それは「とうめいなもの」とも言い換えられる。ぼく自身は水や空気が大好きなのだが、水や空気の存在を意識することはもちろん多くない。只当たり前のようにそこに存在しているからだ。ふつう、大人になるにしたがって、空が綺麗だとか、水が透き通っているとか、身の回りにある、当たり前のことに目を向けることは少なくなる。特に、ものや情報で溢れた東京に住んでいると、人に冷たくなったり、生きていくために取捨選択し、どんどん合理的になってゆくものである。それが現代の経済成長そのものでもあり、感情を排除した成長は予測可能な安定感のある成長を指すのである。もちろん、それでも生きてはいける。生きてはいけるが、なんだか、悲しい。とうめいなものに目を向けて、違和感に気がつくことこそ、「なにもない」を会得する最も簡単な方法なのである。

違和感に気づかせてくれる「とうめいなもの」の代表例がアートだろう。芸術家・李禹煥の「余白の芸術」の中で、千利休の所作を例に挙げた上で以下のように述べている。

最高の表現とは、無から創造することではなく、そこに在るものをズラすことによって一層鮮やかな世界を見えるようにすることのようだ。芸術家の仕事は、あるがままをアルガママにすることにある。

彼は「とうめいなもの」によって内と外をつなぐ人だ。アートをもって外の世界に色をつける。だから作品はつねに境界に存在する。彼はつねに境界を歩く。アートによって、まわりにある余白を定義づけている。「とうめいなもの」は「余白」と同義なのかもしれない。これはミニマル・アートに典型的だが、それだけではない。「なんでもある」という「なんでもない」を知れば、世界は変わる。

(追記:2020.02.02)
アートを見るとか、洋服を買うとか、旅をするとか、自己投資という言い方でこういった消費を表す者がいるが、甚だいけ好かない。だって、それらは消費であって、投資というような高尚に見える理由を押し並べておこなうようなものではないからである。好きだから買う、見る、行く。それが先行しなければ、その行為自体になんの意味もない気がするのだ(そもそも意味などなくていい)。

(追記:2020.02.05)
具体的対象を持たずに作品を構築する「抽象芸術」なる概念がある。それは具象芸術ほどわかりやすさがないために、過去の歴史の系譜において多くは語られてこなかった形而上的概念でもある。マルセル・ブリヨンの「抽象芸術」(滝口修造訳)によると、目には見えない法則を探る「抽象芸術」的手法の延長にあるのが現代の科学だという。ぼくは以前からアートとビジネス、そしてアカデミックの3つが統一されるべきだと考えていて、まだその具体的手法が見えていないだけれど、「抽象芸術」という手法を軸に考えれば、これが可能になるのかもしれないと軽薄ながらその徴証を感じている。

(追記:2020.03.19)
少し前に引用した千葉雅也「動きすぎてはいけない」で、ドゥルーズの「感覚の論理」を紹介しつつ、芸術家フランシス・ベーコンについて下記のように述べている。

形象の輪郭は、表象からの逃走線である。そして、表象からの逃走線を狂わせすぎないということ。

これがまさに抽象という手段であり、アートがなせる最高の表現方法だと思う。ここでも「にげすぎず、にげる」ということが強調されている。


ヱヴァンゲリヲン最新作のあの赤いパリの様子、「コム・デ・ギャルソン」が作り出した黒と赤のコントラスト、塩田千春による赤の線たち、白髪一雄のフットペインティング。あれらは全てひとに生々しさをもたらす。血の色。肉体の色。精神的ユートピアへの片鱗をそこに見せてくれているのである。そこに違和感のみぞ現る。

(追記:2020.03.27)
その反対にあるのが「青空」だろうか。間接的に、その爽快な青の裏にある赤を連想させる。青空からはなぜか戦争が想起される。(ジョルジュ・バタイユの小説に「青空」というのがある)


蕩尽

「蕩尽」という言葉がある。「財産を湯水のように使いはたすこと」を指す言葉で、どうしようもない浪費家のような感がある。バタイユが「呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽」という本を通して訴えた「蕩尽」を中心とした社会のあり方には衝撃を受けた。生産よりも消費が先行するといった内容で、戦争ですら過剰なエネルギーの消費による産物だと結論づけた。モアによる「ユートピア」にも「君主というものは、たとえて言えば、絶え間なく水の溢れ出る泉のようなもの」という記述がある。余剰が溢れ出ることで経済が成り立つ。王政時代にはこれは顕著だったのだろう。

人間が生み出した「過剰」という概念は、現代に多分に存在する。そしてその「過剰」を消費することに、人間の存在価値があるというのも納得だ。たとえば、倹約ということも「過剰性の消費を先延ばししている」ことだと考えると、いかに意味がないことなのかがわかる。余剰を消費すること、贈与することには計り知れない価値があるのだと思う。このあたりは國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」に詳しいが、とくに、機械が人にとって代わる時代が来れば、人々は“過剰な余暇”をもて遊ばなければならない。これは「仕組み化」からの脱却を可能にするという点でも、ポスト資本主義社会のあるべき姿と言える。過剰の扱い方を考える時代は既に眼前にある。



アートとデザイン

アートの役割は余白をみせること。デザインはその余白を埋めるためにあると思う。渋谷のとある高架下には、甚だ理解しない担当者が作ったとしか思えないアートスポットなる壁画がある。デザインとしてアートという言葉を使い、アーティストへ依頼をし、そのどちらとも言えない見せ方に落とし込まれる。アーティストは被害者である。



世代交代

ある程度の権力を持つ大人たちは、その権力を振りかざすべきではない。人は権力を持てば持つほど、弱くなる。つまらなくなる。これ以上、誰かとの関係性を保つための、目先のためだけのビジネスをやるくらいなら、何もしなくてもいいから、潔く引退してください。若者にチャンスをください。それができないのだから、この国にはいつ謀反が起こってもおかしくないくらいだと思う。若者はなぜこんな混沌の中を、少しの不平不満を漏らしながらも、昨日と同じ日々を生きていられるのか。その現状が堪らない。諦めているのですよ、我々は。現状に満足しているのでもなく、反抗するでもなく、もうあなた方とは異なる世界線を目指しているのですよ。そして、ぼくたちはきっと忘れ去られた世代となる。何も成し遂げられなかった、空白の世代になってしまう。正直もう遅いくらいだと思う。これからの世界を見据えるには、ぼくですら歳をとりすぎてしまったと感じる。それなのに、堂々としていられる神経がわからない。それでも構わないから、自分が大事だと思うならそうすれば良い。きっとすぐに後悔をするのはあなた自身だから。



無題4

どうか、アートを殺さないでください。アートとは、現代を、自分を映し出す鏡です。もっと言えば、その光の反射そのものを指すのだと思います。価値は反射の仕方にあるのです。だから、アートは買えません。アートそのものには触れることができません。ぼくたちが見ているのはアート的反射を持つ作品であって、さらに言えばそこに反射するぼくたちなのです。アート市場なんてものは存在しません。アートへの投資価値なんて本気で言わないでください。ビジネスという磔刑台に乗せられているのは、みんながアートだと言っているのは、反射を失った粉々の鏡だと思うのです。アートへの投資価値というものがほんとうに存在するのだとすれば、それはむしろ素晴らしいアートが生まれる環境を作ることになるのであって、それは混乱の世の中を招くこと、つまり、世にディストピアを注入すれば事足りるのかもしれません(それはまさに今かもしれません)。しかも、それは犯罪者の深層心理とそう違わぬものかもしれません。



メディア

アートがこちらとあちらをつなぐ鏡のような存在だとすれば、アートはメディアであるとも言えるのではないだろうか。メディアが伝えるべきは現実で、そこに違和感を含むものである。それは、内外をつなぐ緊張の集合体であるべきだ。さもすれば、人もメディアである。

芸術家・岡本太郎は自著「今日の芸術」のなかでアートを「いやったらしいもの」と表現した。人々の反応はいつも同じだ。みな、見ないふりをして、目の前で暴れるものをただ排除しようとする。それはまるで政治のようだ。美術館や国会議事堂にわからないものをとじこめる。この状況はともに改善すべきである。そこに欠かせないのは個々の自立性よりも鏡を通した自己と世界の関係性。個の時代と言われて久しいが、今の時代に必要なものは本当にそれだけなのだろうか。

(翌朝追記)
昨日、メディア業界の年上の方々とお話したのだけれど、メディアに対する怒りは同業内からも相当なものである。メディアに関わるものとして、今のメディアがいかに古いもので、つまらない指標ばかり気にして、必要のないコンテンツを作り続けているのか、何故ちっとも気にならないのだろう。

(さらに追記)
メディアが意味やストーリーばかり伝えることに辟易としている。大事なことは全てが言語化できるものではない。


言葉

2019年に影響を受けたものを3つ挙げろと言われたら、近代西洋哲学とヱヴァンゲリヲン、最果タヒだ。ちょっと意味のわからない羅列だけれど、言葉と思索というものにいろいろと左右された1年だったと思う。とくに、最果さんには多大な影響を受けてしまった。これは彼女の詩に泊まるという体験を具現化すべく「詩のホテル」というものを一緒に作らせていただいたことがきっかけで、まるで水のように変化する言葉との向き合い方に、ひとつの可能性を見出すことができたのだった。

言葉は概念だ。文字になったり、声になったり、使う状況やタイミングによってその力は驚くほどに変わる。言葉はほんとうに面白い。手書きの言葉がその人の性格を反映するというのは当然だが、アイデンティティを失ったパソコン上の文字ですら、その羅列によって個性は生まれる。活字になった書籍も同じだろう。活字離れが進むというが、言葉の魅力はそれだけじゃないはずだ。オールドな概念はさっさと捨てて、言葉の可能性をもっと楽しんでいきたいと思う(保身の為にも書いておくが、ぼく自身は活字も、その温度感を反映できる書籍も大好きで、むしろ体温のない死んでしまった言葉は嫌いである)。セクシーな言葉を纏って、ディストピアを生きていくしかないのである。

(追記:2020.01.27)
友人の「共通言語は対話を促進するものだと思っていたけれど、むしろ阻むものなのかもしれない」というSNSへの投稿を見て、共通言語は実はすごく盲目的なのだなと思った。

(追記:2020.02.23)
つべこべ書いてはいるが、結局のところ、言葉にはそこに書かれてある以上の意味はない。それが全てである。それ以上は妄想するしか手立てがない。俳句や詩などにそれ以上の意味を求めてはつまらないのと同じである。国語の試験でそこに模範解答を求めるなど言語道断(しかも選択式!)。高浜虚子の「俳句への道」では、このことを俳句に見られる「客観写生」になぞらえて説明していた気がする。


中庸であること

生きることが四次元空間における移動だと定義すれば、にげることは合目的的な移動でしかない。目には見えない形而上的なユートピアに憧憬を持ちつつ、現実と非現実の中庸にい続けること。YESでもNOでもないもの。YESでありNOであるもの。そんな禅的な中庸に存在すること、それこそがにげることなのかもしれない。

(追記:2020.03.14)
メディア(媒介)という言葉は他方でメディムウ(中間)を意味する。メディアたるもの中立であることよりも、中庸を維持し続けるべきなのであろう。それは片方へと歩み寄ってしまうこと、またバランスをとることをやめてしまうことからにげることに他ならない。



無意識の果て

唐突だが、ぼくにとって整体は、体の不調を治すためのものではないらしい。自らの身体と向き合い、その不調や異変、もしくは正常さについて知るための時間だったのだ。本来、整えるとはそういうことだ。実際に整体を受けてみると、心を無にして身体を他人に委ねるとしても、そこにはどうしても意思が介在する。だが、時にほんとうの意味での無意識に出合う瞬間があるのだ。その時にはじめて、そうでない状態、つまり意思のある状態と、意思そのものを知ることができる。

面白いのが、身体の左右でそれが明確に差異として現れる瞬間である。ぼくの場合、左側、とくに左手は無意識の度合いが強い。一方の右手はうまく言うことを聞かず、どこまでも意思が混在する。左手が状態としての無意識であるならば、右手には存在としての無意識があるという感じがする。後者はどちらかと言えば意識的な無意識だ。人は無意識を通じてしか、意識を認識できない。

これはアナログな他人との接触があるからこそ生まれる感覚なのだろう。そして、整体を終えると、身体が驚くほどに重たい。そうだ、身体はこんなにも重たいものなのだ。普段いかに身体性を無視して生きているのかに愕然とする瞬間である。それは抵抗のあるプールから上がったあとに、重たい身体を感ずるが如くであろう。


失われたユートピアを求めて

にげるための手助けとなるかもしれない感覚たち。

①余白
何かに対する見方は人それぞれ異なる。互いを赦すことが余白を生み、その先に違和感と真理がある。

②ゆらぎ
二分的であってはいけない。全ては曖昧につながり、境界を持たない。そんな境界なき境界で、ゆれる感覚を持ちたい。

③透明性
自らの視点を持ち、正直であること。つねにピュアであること。

④手ざわり感
五感を研ぎ澄まし、ものに触れる。その手ざわりを大事にする。そして、疑い、問いを生む。

⑤日常性
どんな劇的な事象も日常の延長にある。一方で、時に、これまでの流れを断ち切る瞬間は存在する。

⑥自発性
自分自身で想像し、決断する。意識的な無意識の中で、直感的な判断を重んじる。ただし、そこには知性が大きく影響する。


パンクとしてのクラシック

永劫回帰、悲劇は繰り返される。結果は見えている。それでも、変わり続けるしかない。モードとはそういう運命を背負わされた姿勢のことを意味している気がする。

ここ数年間は“なんでもあり”のつまらない時代が続いた。王道を避け、ストリートというトレンドになり得るはずのないテーマをトレンドだと錯覚し、みなが追いかけた。ぼくは、気がつけばコレクションを見なくなった。ランウエイ自体がつまらないのではなく、それを報じるメディアとかSNSというツールで盛り上がるファッションオタクを見ているのが面白くなかったから。ぼくの中で、モードは2013年くらい死んだも同然だった。

その流れはどこを見ても同じだった。政治だって混乱を極めてストリートの反逆みたいな時代が来ているし、好き放題表現することに価値を見出す現代アートを我が物顔で批評する人たちがたくさん出てきたし、主体なき時代を象徴するかのようにvaporwaveやcity popみたいなユートピア的音楽が巷に溢れた。みんながそういった潮流を定義したがった。ただ一言、混乱の時代と言えばいいものを。(そんな言葉はないけれど、ぼくにとっては“乱混”みたいな時代だった。)

さて、年が明けて始まったロンドン、ミラノ、パリでのメンズ・コレクションをインターネットを通じて見ていたのだけれど、「グッチ」を見て「戻ってきた」と声が出た。ぼくが知ってるファッションの世界だった。立て続けに「ジル・サンダー」「プラダ」「フェンディ」を見た。これはもう間違いのないことだった。クラシックへと時代が回帰している。久しぶりに興奮した。ほしいなと思った。

2011〜12年頃、ファスト・ファッションによる資本主義が勢力を増す中で、資本主義たり得ない感情主義による経済を夢みて、モードは最後の抵抗を続けていた。ラフ・シモンズによる「ジル・サンダー」と、クリストフ・ルメールによる「エルメス」、そしてクリス・ヴァン・アッシュによる「ディオール・オム」とステファノ・ピラーティによる「イヴ・サンローラン」が好きだった。

あの頃に夢見たモードの王道が今、息を吹き返しつつある。混乱の時代を抜けたわけはないし、むしろ世界は狂乱の一途をたどっている。そんな中での王道回帰。それはつまり、いよいよ混乱そのものが一大勢力として世の中に台頭してしまったことを表しているのかもしれない。かつて王道に対してパンクが存在したように、これからの時代は混乱に対して王道が反抗していく。クラシックによるパンクの始まりだ。



そして、世界は繰り返す

構築と脱構築を繰り返し、世界は拡張されていく。加速主義の名の下に神が創造する未来はディストピアか、ユートピアか。というか、ディストピアにこそユートピアがあるのだろうか。混沌の極限にあるのは余白である。なにもないことはなんでもあることと同義である。

これまた「余白の芸術」において、衰退の美術という項目で紹介されている話だが、人類はもう破滅に向かうというのである。しかも自分たちの手で。しかも、それは誰もが深層心理で望んでいることなのかもしれない。人々は疲れ過ぎたという。

この世は解体に向かう。それは間違いない。そして、ぼくたちはあらゆる意味で淵に立っている。最果てに立って、最果てを探すかの如く。これは絶望でもあり、希望でもある。かつての高度経済成長のような、明るい未来への盲信的な希望はない。ぼくはあの頃を知らぬが、それが幸せだったかと言えば、そうでもない気がする。ぼくはこんなニヒルな時代が嫌いではない。

(追記:2020.02.09)
夕焼けを前にしては、どんな巨大で新しい建造物も、ただの鉄の塊でしかなくなってしまう。ぼくたちはただ自然に屈するしかない。この世の発展は全て解体へ向かうだけなのだろうな。‬

(追記:2020.02.12)
いよいよ終わりが近付いている。今ぼくがほしいものは圧倒的な知と一切の無知である。

(追記:2020.03.03)
漸近線という言葉がぼくたちの生き方にすごく親和性があるので紹介したい。それは辞書などでこのように説明されてある。

「十分遠くで曲線との距離が 0 に近づき、かつ曲線と一致しない直線。 漸近線は存在するとは限らず、また複数存在する場合もある。漸近線を見出すことは、曲線の概形をつかむ一助となる」


来たるべき日の為に

ずっと、来るはずのない明日を待っている。通り過ぎてきた全ての感情は来るべきその瞬間の予行演習でしかなくて、その準備だけはもう厭というほどできているのにもかかわらず、である。それはまるで、安部公房の「他人の顔」に出てくる「鬼のいない鬼ごっこのような真似」のようだった。


(追記:2020.02.12)
死が無関係というのはその通りだ。来るべき日は来ないし、全ては現実でないようで、まったくのフィクションとも言えぬポジションにいて、ぼくたちはただそれらを知覚することしかできない。ぼくたちが生きる期間は全てプロセスで、ゴールは決して訪れない。まるで無関係な世界とぼくたちの距離感こそ、ぼくたちがにげ続けるその距離感に等しいのである。鬼のいない鬼ごっこで、ぼくたちを追いかけるものは果たしてなんだったのだろう。


(追記:2020.02.17)
世界が終わる時に見える景色は、それは多分ユートピアの片鱗で、死ぬ前に感じるのであろうあのむずがゆい心地良さに似た感覚で空を見上げるのだろうなと思う。そして、それは人生でもっともポジティブな、祈りにも似たあきらめなんだと思う。‬



参考文献

「悦ばしき知識」(フリードリヒ・ニーチェ)
「都市デザイン」(黒川紀章)
「空気感」(ペーター・ツムトア)
「濃霧の中の方向感覚」(鷲田清一)
「草枕」(夏目漱石)
「ユートピア」(トマス・モア)
「アーバン・アウトドア・ライフ」(芦澤一洋)
「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)
「ヨーロッパ退屈日記」(伊丹十三)
「くるい きちがい考」(なだいなだ)
「野生の思考」(クロード・レヴィ=ストロース)
「逃走論 スキゾ・キッズの冒険」(浅田彰)
「時代からの逃走 ダダ創立者の日記」(フーゴ・バル)
「青少年のための自殺学入門」(寺山修司)
「動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」(千葉雅也)
「余白の芸術」(李禹煥)
「エロチシズム」(ジョルジュ・バタイユ)
「春琴抄」(谷崎潤一郎)
「氷」(アンナ・カヴァン)
「若きウェルテルの悩み」(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
「抽象芸術」(マルセル・ブリヨン)
「感覚の論理」(ジル・ドゥルーズ)
「青空」(ジョルジュ・バタイユ)
「呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽」(ジョルジュ・バタイユ)
「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎)
「今日の芸術」(岡本太郎)
「俳句への道」(高浜虚子)
「他人の顔」(安部公房)


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