ホースマンの愛情に応えるために、サラブレッドはレースで限界を超えて走る

2015年の週刊Gallopの特集「功労馬に会いに行こう」にナムラコクオーの名を見つけたとき、思わず前のめりになって読み入ってしまった。生きていたのかというのが正直な感想であり、土佐黒潮牧場で悠々自適な生活を送っていると知り、何とも言えない嬉しさがこみ上げて来た。牧場を走るナムラコクオーの後ろ姿を見て、私が自由な身であれば、今すぐにでも高知に飛んでいきたいとさえ思えた。現在ターフで闘う現役のサラブレッドに光が当たるのは当然として、かつての英雄たちのなつかしい表情を見ると、いかに自分が競馬と共に生きて来たかを思い知らされる。

現役を引退した競走馬はどこへ行くのか。素朴な疑問を抱く競馬ファンは多いだろう。ナムラコクオーのように功労馬として生活を送る馬もいれば、乗用馬としての新天地を切り開く馬もいる。もちろん、そうではない馬たちもたくさんいる。馬たちの余生はさまざま。走らなくなった馬を全て功労馬や乗用馬にすることが経済合理性に反することもよく理解できる。だからと言って、完全に割り切ってしまうことが正しいとも思えない。すべての競走馬たちを救うことは不可能だとしても、1頭でも多くの馬たちに手を差し伸べようとする気持ちを私たちは失ってはならない。

サラブレッドはしゃべれない。

どんな扱いを受けようが、ただ黙って、人間にすべてをゆだねて生きていく。

馬が生を受けるとき、父馬と母馬は、人間が人間の都合で選んだ種牡馬と繁殖牝馬である。生まれた子馬は、人間の都合で厳しい育成を受け、人間の都合で売買される。そして、人間の都合で激しいレースを闘わされ、これに勝ち抜いて生き残れば今度は、人間の都合で父馬や母馬として優れた血を伝えることを求められる。

彼らの生涯は、すべて人間の都合によって支配されているのである。

それでも、サラブレッドはしゃべれない。

何という儚い動物なのだろう。わずかなアクシデントでも命を失う過酷な宿命、熾烈な淘汰のための競争、人に委ねられた生活。そういう研ぎ澄まされた毎日を、まるで綱渡りでもするようにして、サラブレッドというガラス細工の芸術作品は、少しずつ少しずつ作り上げられていく。

この美しく儚い動物を守っていきたい、と私は思った。

私が競馬を仕事にしようと決めたのは、そういう思いが原点だった。

サラブレッドの人生を守り、より良い生涯を送れるように、私ができる限りのことをしたい。

牧場での毎日から生まれたそんな思いが出発点になって、私は競馬の世界に足を踏み入れていき、そして、サラブレッドと競馬の魅力の虜になって、離れられなくなった。

(「勝利の競馬、仕事の極意」角居勝彦著 より)

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治郎丸敬之

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