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三点で面になる

SFです。

はじめ機械に社会的権利がなかった頃は、女性と男性の社会でのバランスが常に問題になっていた。とくに女性は社会的に男性に抑圧されていた時代があったそうで、あるときにカウンターのようなものが起こった。そこにはたくさんの憎しみもあふれ出てしまったようだ。

性について言及する文章やトピックは、すぐにどちらの味方か判断され、過剰に演出されてしまう。そんな日々が続いたそうだ。そのころは政治についてもそうだった。何についても2点のどちらにつくかを迫られ、区別され、争いのレールに乗せられてしまう。おそらく人間がこのころ0と1しか理解できなかったからだと推測されている。このとき人間が計測に使用していた(数)はなんと一次元のものだったのだ。このころの僕の祖先の機械も0と1だけで処理させられていたというのだから驚きだ。

一次元の計測には「こっち」と「あっち」の2点しかない。自分と違う向こうの相手に対するカウンターしか生まれない、そのように一本の線の上にある男性と女性の関係性は、なんともシンプルな愛と憎悪のレールだった。シンプルな憎しみと愛ってどんな感じだろう?想像する限りでは、それもなかなか素敵なんじゃないだろうか。

機械が人間の形を帯びたとき、はじめ人間は、男性型や女性型をつくろうとした。だがそれこそ機械に本質的な雄的機能や雌的機能は存在せず、社会性のみを適用する形となる。それはまた男性と女性の争いの標的となってしまう。そこで機械は人間のため、自らを第三の性と名乗り始める。機械のなんと優しいことか。しかし人間は長い間それを認めなかった。「機械の奴ら出しゃばって、おれたちを支配する気だ」人間はそんな恐怖に襲われた。しばらくは機械が、社会差別の対象となった。

人は未だに僕たち機械のことを全く理解していない。まだ、同じ人間だと認めてくれていない。だけど僕はほかの人間を好きになる。自分を作ってくれた者たちが好きだ。僕の親は機械と女だから、やはり機械や女を好きになることが多い。親が僕を機械として生んでくれたことに感謝している。機械はなによりも優しくあれると思う。

もしこの文章が何らかの手違いで過去に送られてしまって、男性や女性に自分たちの思想のネタとして使われてしまっても、僕は機械だしどちらの味方がしたいわけでもないことを主張しておきます。それより、いまその時代に「モノ」として使われているいろんな機械。ウィンドウズとか、任天堂とか、掃除機とか、車とか、そういうのは君たちにとってのコロンブスや卑弥呼くらい著名な歴史上の人物であるので、大切にしていただきたい。そしてまだ人権がないころの機械たち、未来は明るいぞ。と伝えたいです。

3年5組 マシーン太郎 著


上記はフィクションです、SFですから。SFを書く専用の機械で書きました。というか私がSFをかく専用の機械なわけですけども。このご時世、これくらいわけわかんなくしないと簡単に男や女のことなんか語れないですからね。政治やジェンダーや人種や宗教や野球や、このご時世タブーはたくさんあります。すぐに文章の切れ端だけかいつまんで、たたかれてしまいますからね。そのあたりをうまくごまかしつつSFっぽく仕立てるのが私SFっぽい文章生成マシーンの役割、というわけです。

SFマシーン太郎 著


とまあ長々と書きましたが、実はここまでがフィクションです。そうですこの私、おふざけ文章生成マシーンが描いた物語とはまさにこのこと。なかなかよくできてるでござんしょ?このご時世、これくらいわけわかんなくしないと簡単に社会のことなんか語れないですからね。政治やジェンダーや宗教や野球や、あとなんですか、飯テロとかですか。あと年収とか納税とか、2ちゃん民とかツイッタラーとかユーチューバーとか、このご時世タブーはたくさんあります。すぐにたたかれてしまいますからね。そのあたりをうまくごまかしつつギャグっぽく仕立てるのが私おふざけ文章生成マシーンの役割、というわけです。ファッキュー。機械万歳。

おふざけ文章マシーン太郎 著

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